それからが大変だった
家茂の跡を継ぎ将軍職となった慶喜は鳥羽・伏見の戦いで指揮を取るも、負けるとすぐに船で江戸に逃げ帰った
そして、朝敵の汚名を着てしまった
勢いに乗る官軍は、和宮のかつての婚約者、有栖川宮熾仁親王を総督にして先頭に立て、一路東海道を東へ
また、中山道からも軍を送った
幕府側の家来達も官軍を迎え討つ覚悟だ
このままでは江戸は火の海になる…
和宮はどうか進軍をやめて江戸の民を救い、徳川家を温情により存続させてほしいという嘆願書を、何回も朝廷に送った
又、姑の天璋院も嘆願書を出してくれた
慶喜は蟄居し、朝廷への詫び状をしたためたが和宮は表現が足りないと思ったか、2度ほど彼に書き直しをさせている
朝廷からは、和宮の命を助けたいので脱出するようにという声もあったが、和宮は断った
彼女は万一の時は婚家先の徳川家と共に散る覚悟ですと、手紙で返答している
…この他にも城内で和宮は身に危険を感じることもあったようだがひるまず、幕臣達に決して官軍にはむかわないように、と戒めた
おつきの侍女が、あの小柄な宮様がこんなにお強いとは…ともらすほど、和宮は八面六臂の活躍を陰でしていた