小学1年から中学2年までを岩手県の奥羽山脈のど真ん中で過ごしました。
初めは外国へ来たかと思いました。
周りの人々が何を話しているのかさっぱりわからないのです。
「あば あばな~」(ばあちゃん さよなら)
これだけならなんとなく推測はつきます。
これに独特のイントネーションが加わり、しかも早口でズーズー弁となるとそれはそれは難しい外国語に聞こえます。
それでも小学生の私は一生懸命学びました。
土地っ子と同じ言葉を話し、一緒に行動しいっしょに遊ぶ。
小学生がそんなことを考えていたわけではないのですが、中学生になるころには完全に土地っ子になっていました(と思っていました)。
こんな面白い話もあります。小話です。
ちょうど集団就職盛んなころで、集団就職で東京に向かう生徒たちに先生が注意を与えるのです。
「いいか。東京に行ったらズーズー弁は馬鹿にされるからな、標準語を早く身につけるのだぞ。
まずはじめには語尾に[こ]をつけないようにすればいいと思う。」
東北弁ではたとえば(うまっこ)(べこっこ)(はなっこ)のように語尾に[こ]をつけるのがひとつの特徴となっています。
その特徴を消せば良いというのが先生の目論見だったのでしょうか。
生徒の一人がその言葉を胸に東京に出たのです。
ある時その生徒は上司から買い物を頼まれました。
店でその生徒は言葉遣いに気をつけ、元気な声で言いました。
「すみません。たばください。」
店の主人は飲み込めず、きょとんとしていました。
たばこの語尾の[こ]まで消してしまったのです。
そんな笑い話の出る時代だったのですが、いま私は岩手に住んでいた期間の何倍もの期間を東京で暮らしています。
時々妻の故郷秋田仙北の地(岩手との県境)を訪れるのですが、もう彼の地は外国、アウェーとなってしまいました。まったく翻訳できないのです。
けれども行けば楽しいのです。ほっとします。妻の親戚たちとおしゃべりしていると、わからないことだらけでもとても癒されるのです。
方言は好き嫌いの判断を下すようなものでなく、父親です。母親です。兄弟です。ふるさとそのものです。
その中に包まれているだけでいいのです。
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