HOGスプリングラリーin福岡
平成29年4月14日(金)・15(土)・16(日)・17(月)
参加人数 : 6名ツーリングメンバー(千葉チャプター5名・岐阜チャプター4名)
天候 : 晴の4日間でしたが、帰宅時には天候は下り坂でした。
今回のツーリングはHOGスプリングラリーに合わせて福岡の歴史と文化を訪ねる旅でした。
桜の花びらの舞い散る日本列島を縦断する旅となりました。九州の神社仏閣、ABCツーリング、マンホールカードが今回の目的でした。3泊4日の旅で夜皆様と酌み交わす酒が最も重要な旅の目的です。熱くもなく寒くもないバイクツーリングに最も適した時期ではなかったでしょうか。
一日目 4月14日(金曜日)
海老名SAを5時集合、5時10分出発で計画していました。海老名での日の出時間が5時10分であったこともあり、旅立ちの写真は桜をバックに撮る目的もあり、その時間をスタート時間としました。
スタート時の記念写真を撮ってからスタートするのが恒例ですが、皆さん、いつもながらうれしそうです。今回は6人でのツーリングです。千葉チャプターのメンバーが5名と柏チャプターにも籍を置いている4名が福岡への旅を楽しみます。
まずは今日の目的地壇ノ浦SAを目指して、一日で1,050㎞以上の距離を走ります。一時間に1回、おおよそ100㎞毎に休憩をしながら、明るいうちに壇ノ浦に到着する予定です。9か所のSAで休憩を取りながら10か所目が目的地の壇ノ浦PAです。
最初の休憩場所は清水SAです。新東名のサービスエリアはどこも綺麗で洗練されています。
駐車場も広くて止めやすい施設となっています。
次の休憩地は浜松SA、ガソリン補給をして次の湾岸長島SAに向かいます。
湾岸長島SAの次は大津SAです。
10時20分となり、Aさんはそろそろお腹が空いてきたところです。
でも、昼休憩は次の三木SAまで我慢ですよ。
何名かはマックで腹ごしらえ!
三木SAに到着しました。各自昼食です。
吉備SAに到着です。渋滞が全く無かったこともあり、予定時間より少し早く到着です。
壇ノ浦PAに到着しました。施設は満室でした。
今日の宿は壇ノ浦PAにあるファミリーロッジ旅籠屋です。
ここに泊まることで、金曜日に走行した高速料金が夜を跨ぐことで深夜割引が適用されて3割引きとなります。
『壇ノ浦の豆情報』
壇ノ浦(だんのうら)は、山口県下関市周辺の海域名および地名。馬関戦争の主戦場の一つであり、また治承・寿永の乱(源平合戦)の最後の合戦となった壇ノ浦の戦いの舞台にもなった場所でもある。 関門海峡でも最も狭隘な場所に面しているため、本州と九州を結ぶ陸上交通機関の多くが壇ノ浦と対岸の和布刈(福岡県北九州市門司区)の間で関門海峡を渡っている。
現在の町名(下関市壇之浦町)としては関門橋直下周辺を指すが、広義には壇之浦町・みもすそ川町・本町あたりまでを含めることがある。
到着して間もなく、壇之浦PAを出て唐戸市場にできている『カモンワーフ』の『からと屋』で下関と門司の夜景を見ながら食事会です。
旅の疲れを癒すためにまずは酒です。
各自好きな物を頼み宴会です。腹いっぱい食べました。
とらふく刺し、とらふくアラのから揚げ、刺身の盛り合わせ、サラダ、海鮮丼、・・・
ビールもワインもひれ酒も頂きましたよ!
夜景も往来する船もロマンチックで綺麗でした。
勿論、やりましたよ恒例の2次会、でも写真撮るのを忘れました。
そして、長い長い一日目を終えようとしています。
二日目 4月15日(土曜日)
今日もいい天気です。朝からABCツーリングの写真と関門橋の見学・勉強です。
『関門橋の豆情報』
関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ。1973年(昭和48年)11月14日に開通。橋長1068m、最大支間長712mは、若戸大橋(橋長627m、最大支間長367m)をしのぎ、開通時点では日本および東洋最長の橋となった(1983年(昭和58年)開通の因島大橋が関門橋を上回る規模の橋として完成し、その後もより大規模な橋梁が複数架設されている)。若戸大橋と並んでその建設は明石海峡大橋など国内の長大橋の先駆けとなった。
形式は標準的な3径間の吊り橋で、補剛桁はトラス。橋梁等の防食法には溶射が採用されている。関門海峡は大型船舶も航行する重要航路であることから、桁下から海面までは61mの高さを確保している。主ケーブルの直径は67cm(直径5.04mm素線、14014本)、ハンガーケーブルの直径は53cm。
1973年(昭和48年)度の土木学会田中賞(作品部門)を受賞。
架橋から40年が経過し、交通量の増大に伴い様々な部分に劣化が進んでいることから、2011年度からの5年計画による大規模補修を行っている。具体的な内容としては、補剛桁と主塔の塗替塗装、補剛材補修と支承およびボルトの交換、劣化が著しい橋台上面と下面のコンクリート床版の補修と舗装打ち替えなど。
特に床版補修においては、2013年8月から3期に分けて工事が行われ、この間3車線を1車線に車線規制する大規模なものであった。
橋梁の前後区間を含む下関IC - 門司IC間の高速道路としての法定路線名は、関門自動車道(かんもんじどうしゃどう)となっており、正式には下関IC以東の中国自動車道でも、門司IC以南の九州自動車道でもない、「国土開発幹線自動車道以外の指定高速道路」である。
関門橋をバック記念撮影です。
まずは大宰府天満宮に向かいます。
壇ノ浦PAから約一時間、天満宮の駐車場にいれます。
土曜日ではありますが、早いこともあり、一般車両はほとんどいません。でも観光バスは数十台います。 参道にあるスタバも洒落た外観。
『太宰府天満宮の豆情報』
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。
右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。死後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳の若さで死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去してしまった。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった。
文明12年(1480年)に当地を訪れた連歌師の宗祇が『筑紫道記』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。
明治に入り、近代社格制度のもとで明治4年(1871年)に国幣小社に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。同14年(1881年)には官幣小社に昇格、次いで同28年(1895年)には官幣中社に昇格した。神社の国家管理を脱した戦後の昭和22年(1947年)に社号を太宰府天満宮に復した。
祭神の菅原道真が「学問の神様」であると同時に「文化の神様」としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌・連歌・歌舞伎・書画の奉納を通じて、文芸・芸能・芸術、いわゆるアートと関係が深まっていった。特に奉納絵馬は九州でも指折りの質量となっており、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしている。
参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。土佐脱藩の土方久元や中岡慎太郎も滞在しており、薩摩の西郷隆盛や長州の伊藤博文、肥前の江藤新平、坂本龍馬なども来訪している。
太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。
土曜日の10時前、割と閑散とした通りではありますが、ひとたび、中国人観光バスが到着するや状況は一変して話し声、喚き声、怒鳴り声が聞こえてきます。
この日も観光客の7割はアジア人(中国人)でしょうか?
そんな観光客に交じって新選組の若き武士を発見。いち早くAさんは駆け寄りツーショット、刀に手をやりポーズをとるあたり、写真慣れしています。
もっともAさんはマスクと帽子とサングラスで誰なのか全くわかりません。
彼女は趣味でこの格好をしているようですが、一人で来ていて、かなり堂々としていました。
誰を演じているのかを聞き損じてしまったが、土方歳三か、沖田総司か、斎藤一か、藤堂平助か?
どちらにしても、秋葉原だけではなかった!『趣味の人』 ハーレー乗りも同じですね!
次の目的地南僧院に向かいます。
何ともデカイ、世界最大の涅槃像。
『南僧院の豆情報』
南蔵院は篠栗四国霊場の総本寺で、高野山真言宗の別格本山でもある。明治19年、廃仏毀釈のあおりを受け、県令によって霊場廃棄命令が出されたが、地元の人々の嘆願の結果、明治32年9月に高野山より南蔵院を招致することで霊場の存続が認められた。
移転とともに篠栗にやってきた林覚運第二十一世住職の熱心な布教と、地元の人々の熱意により、今では日本三大新四国霊場のひとつに数えられるようになった。南蔵院には年間120万人の方々がおまいりされるほど広く信仰されている。
また、南蔵院では長年にわたりミャンマーやネパールの子供たちに医薬品、ミルク、文房具などを贈り続けた返礼として、ミャンマー国仏教会議よりお釈迦様、阿難様、目連様の三尊者の仏舎利の贈呈を受けた。この仏舎利をおまつりするために平成7年に釈迦涅槃像が建立された。全長41m、高さ11m、重さ300トン、ブロンズ製の涅槃像としては世界最大。完成を祝う落慶法要では、「千僧供養」がいとなまれ、日本国内をはじめ、東南アジア各地から約1,300人の僧侶が参列した。今では篠栗のシンボルとして人々の”心のよりどころ”となっている。
ブロンズ製の釈迦涅槃像では世界一の大きさを誇っています。
また、南蔵院の住職は何度も宝くじを当てていることでも有名。1995年のジャンボ宝くじで1等前後賞合わせて1億3000万円に当選、さらにその数日後には『ナンバーズ4』で140万円を4口、計560万円を当て、その後も大小あわせて30回以上の高額当選を繰り返しているという恐ろしく強運の持ち主(いやいや、日ごろの行いの賜物ですね、きっと)。とにかく、巨大釈迦涅槃像に強力な金運アップが期待できそうな南蔵院。
次の目的地はマンホールカードをゲットするために福岡市役所へ向かいます。
ここでHさんがバイクトラブル、エンジン音が尋常でないためディラーへ向かうこととなりました。
他の者は市役所地下駐車場へ
市役所まえはイベントで相当の人出、バイクも止めたことだし、昼ごはんとするか。
福岡市情報プラザでマンホールカードを頂き受付の女性に地元の食べ物の紹介して、ということで『博多ラーメンの膳』に向かうこととしました。
一杯280円です。この値段ですから、並んででも食べる地元の人の気持ちも解ります。
私たちが入る時も15人ぐらいが並んでいました。
話は変わりますが、福岡市中央区博多天神1丁目が4月20日に3億8千万円が奪われた場所です。
私たちがラーメンを食べたところから僅か50mのところで5日後に事件が起こりました。
こちらで頂いたマンホールカードです。
次の目的地、宮地嶽神社に到着しました。
『宮地嶽神社の豆知識』
宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は、福岡県福津市に所在する神社。神功皇后を主祭神とし、勝村大神・勝頼大神を配祀する。
全国にある宮地嶽神社の総本社である。毎年220万人以上の参拝客が訪れ、特に正月三が日には100万人以上の人々が訪れている。開運商売繁昌の神社として知られている。宗像地方では宗像大社と並んで参拝客が多く、日本一大きいと称される注連縄も有名である。神社の参道には多くの土産店が立ち並んでおり、商売繁昌にちなんで招き猫やダルマを販売している店が多い。また「松ヶ枝餅」が売られている。餅の表面には宮地嶽神社の神紋・三階松紋がある。
その他、毎月末の深夜0時(明けて1日)には「朔日参り」と呼ばれるものが行われており、多くの参拝客が深夜にも関わらず詰め掛ける。そのため多くの出店が出店しており飲食店も開店する。
参道のうち、「男坂」と呼ばれる神社正面の石段から門前町を通り宮地浜まで至る西向きの参道は、約800mに渡る直線道路となっている。9月の秋季大祭においては、この参道を御神幸行列が牛車で往復する。また、この参道の延長線上に夕日の沈む期間が、年に二期(2月下旬および10月下旬)あり、近年ではこの夕日と参道が一直線に並ぶ光景を「光の道」と称し観光イベントも執り行われている。
宮地嶽神社の創建は社伝では約1600年前にさかのぼるとされ、息長足比売命(神功皇后)が、三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれる。
現在の境内は祭壇を設けたとされる宮地岳の山腹に位置する。また、宮地岳山頂には宮地嶽古宮の祠、日の出参拝所がある。
全国に鎮座する宮地嶽神社の総本山。約1700年の歴史を誇り、金成の神、開運、商売繁盛のご利益で名高い。直径2.5m、長さ13.5mの大注連縄、直径2.2mの大太鼓、重さ450kgの大鈴と3つの日本一を所有することでも知られる。御本殿の屋根はチタン合金にふき替えられ、黄金に輝く社は必見。奥之院には不動神社をはじめ、さまざまな神様が祀られ、パワースポットとしても有名。
しめ縄の大きさが解りずらいですが、近くまで行くとやたらとデカイ!
嵐のJALの新CM「旅の出会い編」が公開されました。”光のみち”と呼ばれる神社から海まで一直線に夕日に照らされた参道が印象的なCMですが、嵐が出演するJALのCM「旅の出会い編」が2016年2月11日よりオンエアーされました。
宮地嶽神社からは天気さえ良ければ年中キレイな夕焼けを拝むことができます。しかし「光の道」は1年の間に見られる日数が合計2週間程度と限られています。
「光の道」とは宮地嶽神社からまっすぐ伸びた参道の延長線上に夕日が沈み、参道が夕日に照らされる状態のことをいいます。季節によって徐々に夕日が沈む位置はずれているのでピッタリの位置にくるのタイミングは年に2回ほどしかないんです。
宮地嶽神社を後にします。
次の目的地は宗像大社です。しめ縄が随分細く見えます。
『宗像大社の豆知識』
宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社で現在は別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。また、道の神としての総合神、貴(むち)の称号を伊勢神宮(おおひるめのむち)、出雲大社(おおなむち)に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。
『宗像大社』は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い。筑前大島には沖津宮遥拝所(瀛津宮)もある。地図上で辺津宮から11km離れた中津宮、さらに49km離れた沖津宮を線で結ぶと、その直線は145km離れた朝鮮半島釜山の方向に向かう。古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であった。古くから海上・交通安全の神としての神威にちなみ、信仰されているが、現在では海上に限らず、陸上・交通安全の神として信仰を集めている。そのため、福岡県内では宗像大社のステッカーを貼った自動車が多数見受けられるほか、新車を購入した際に御祓いを受ける人も非常に多い。また、車に装着する交通安全のお守りは宗像大社が発祥である。
沖津宮のある海上交通の要所に位置する沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならず「お言わずさま」と呼ばれ、島全体が御神体である。そのため現在でも女人禁制であり、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならない。これが男女差別だと言われることもあるが、これは島の神が女の神様(田心姫神)であり、女性が島に上陸すると嫉妬され祟りがあると言われているからである。昭和29年以来十数年に渡り沖の島の発掘調査が行われ、4・5世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見された。このことから、沖の島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、古代から信仰の対象とされていたことが偲ばれる。現在は、台風などの緊急避難港に指定されている。
近年、沖ノ島を世界遺産にする運動が起こり、2009年1月5日に沖津宮・中津宮・辺津宮及び沖津宮遥拝所と沖ノ島全体を含めて、『神宿る島・宗像・沖ノ島と関連遺産群』の構成遺産として世界遺産暫定リストに追加掲載された。2015年には推薦候補となる事が決定した。なお審査は2017年7月に行われる予定である。
京都のNさん夫妻とバッタリと遭遇、その前には埼玉のOさん夫妻とすれ違う。
宗像大社の駐車場を挟んで反対側にある『海の駅むなかた館』にてマンホールカードを頂きました。 そしてホテルに向かいます。ここからは5㎞程度です。
今日の宿は玄海ロイヤルホテルです。途中コンビニで祝杯用の酒とつまみを買ってホテルに向かいます。 ホテルに到着しました。 駐車場で記念撮影です。
恒例の宴会です。乾杯前に出来上がり顔は赤くなっています。
最年長の島田さんは89歳になりました。トライクでもサイドカーでもありません。ハーレーで走ってきましたよ!
閉宴の後、廊下にはホテルの女性がずらり・・・・・
変なおじさんが混ざっているような気がします。
恒例の2次会です。
初めてのゲストも何名か?
自己紹介のスピーチをしています。
三日目 4月16日(日曜日)
朝の駐車場の風景です。
全国から150名が集まりました。
朝食はバイキングです。いつものことながら少し多めに取ってしまいます。頑張って食べます。
それぞれ、帰路または別の目的地に向かいます。
出発前の記念撮影です。
Hさんはバイクの改善は見られず、修理のため陸送することとなりバイクを置いて飛行機で帰路に付くことになりました。
昼は宮島SAで食事です。『あなごめし』を頂きました。
でも、食べるなら宮島口駅前の「あなごめし うえの」ですね。
到着しました。多賀サービスエリア、今回の宿はレストイン多賀です。
高速を降りずにサービスエリア内の宿に泊まります。もちろんアルコールは売っていないので事前に購入して持ち込んでいます。
高速道を降りないので、明日のツーリングも高速料金は3割引きです。
今日は一次会だけです。旅の最後の晩餐です。ひとりダウンしています。
多賀サービスエリアともお別れです。
午後から天候が下り坂とのニュースを聞いて少しでも早く出ることとしました。
静岡SAで休憩してその後、海老名SAです。12時近くになりましたが、食事は各自で、こちらで解散です。お疲れ様でした。
神社とお寺を廻ったのでもちろん御朱印をいただいてきましたよ。
そして、四日間の走行距離は2,406.7㎞でした。
昼を取らずに走ったので1時間以上早く帰宅できました。
参加された皆様、お疲れ様でした。有難うございました。