個室とリビングの関係を、建物と広場の関係に結びつけたことは、ちょっと強引だった気もします。(笑)
しかし、ただ、居間とかリビング、と言っているより、何か違うもの、可能性を感じていただけたでしょうか。
すまいと家族の関係についての定義や論議は時代により変化しています。
最近の子供の事件が起こるたびに言われること・・・・
おとなしい/いい子/優秀/めだたない・・・
そんなのあまりに一般的評価で、日本中の子供になにかしら当てはまります。
今、内面で潜んでいて、外からわからないっていうことですよね。
内面の何かが変わっている・・・時代を追うごとに・・。
それは、私を含めて40代当り以降、なにかしらあるのではないでしょうか?
それは、高度成長期、街と住まいの形が大きく変わっていった時代にだぶります。
まだむのお散歩のまだむさんがコメントに書かれています。
今、察することがむずかしい
個室を持ったことにより。私達は、察することから逃れようとしてしまったのではないでしょうか?
それは、実際は結構しんどいことです。
独りになりたいのにがまんしなければばらない。好きなことしたいのにがまんしなければならない。なんで自分がそんなことしなければいけないの?・・・など。
だから子供としては、そんなものから逃れたいですね(だったんだと思います)。
でも家族だからぶつかりあっても許せる、、はずなんです。もし、家族がだめなら、近所の子供達や、おじちゃん、おばちゃんという、地域の関係の中でもできたことなのかも知れません。
しかし、今となっては、近所にそんな関係を求めることは難しい時代になってしまいました。
だから、家族の、、いや、人間としての関係をもう一度考え直さなければいけないのではないでしょうか。
親も、親の権限を持ち子供に向うのではなく、ひとりの人間として、もっと言えば、子供の頃の自分にもどって向かい合ってみたらどうなんでしょう?
それは、自分の心をもう一度見直すことなのかもしれません。・・・
自分がしてほしかったこと・・・
自分がしなければいけなかったこと・・・
あの時代を思い出して・・・。
街角倶楽部のphase2さんが、記事の中で、ご自分がニュージーランドに1年住まわれたことについて書かれています。
Flatという一軒家を数人で借り、共同生活をされたそうです。基本的に、前回私が言ったように、各人の個室とリビングの関係だそうです。
国も違う人達が、一つの家で、生活するのですから、それは、もう相手のことを無視して生活するなんて考えられません。
自分がTVをみてても、相手が見たい番組がればゆずる、だれかが本を読んでいれば静かにする、誰かがいて、自分が食事を作れば誘うこともあったでしょう。
相手を思い、そして自分も主張しなければならなかったでしょう。察しなければ、共同生活はくずれてしまいます。
それは、大人どうしだし他人だから、そうすることができるのかもしれません。(しなければ成立しないですね)
それを家庭の中でできたら、いいなぁーと思ってしまいました。だから、親とか子供とか関係なく、できたら・・・
他人との共同生活では、ぶつかり合いうまくいかなくなれば、共同生活をでていかなければなりません。
でも、家族の関係は、そんなシビアなものではないはずです(そうであって欲しい)。許せるはずです。おはよう!って言って、何にもなく朝が始まるはずです。
そうでなければ、力関係で弱い子供は、居場所がなくなります・・・・
phase2さんが書いてます。
私は、むりをしてもしかたがないのでわからないことは、わからないと言い、Flatmateはみるにみかねて、手取り足取りいろいろ教えてくれた。
他人だからできるのか、いや他人でさえできること、家族の中でできないことありません(きっと)。
そんな中で、お互いをだまっていても察し、そっと手を差し出す。そんなことが生きて行く上で必要なことで、それこそが、頭が良くなること、そして、そんな関係が築ける家が、頭が良くなる家 なのではないでしょうか・・・
頭の良くなる家?・・おわり
おわりに当たり、cawcablogのkenkenさん、まだむさん、phase2さん、ありがとうございました。
そしてphase2さん、おかげで”頭の良くなる家”のおとしどころができました。重ねてありがとうございました。