今日はさわやかな1日でした。
ちょっとクールダウンしました。
さみしいから・安心するから・・リビングで勉強する
この記事は、受験をする小学生の話です。最近の小学生は、塾と宿題で夜遅くまで勉強してます。
そんな状況を考えると、”さみしい””安心する”とういう気持ちもわかりますね。
ただ、そこには、親や兄弟の気づかい、というのも存在しているわけですね。
だれかがいるから安心する・・・
これは、受験をする小学生だけの話ではない気がします。
成長の過程で家族から離れたというのは必ずあります。
でも、新聞記事の話からすると、少なくても小学生の期間は、個室はいらない、という結論になります。
そうすると、残り中学・高校の6年間が、必要になるかどうか、ですね。
その後大学生や、就職すると、ほとんど家にいないようなものですから、寝るところだけあればいいのではないでしょうか。(笑)
家を作って数十年の内のたった6年・・・それ以外無用になります。
どうなんでしょう?その6年間の個室を確保するために、スペースとお金を使うこと。
cawcablogのkenkenさんが ”空間をShareする(分け合う/共有する)”ということについて書かれています。その内容を私なりに解釈してみました。
二人以上の人間が、場所を共有しながら住む時に、その場所はお互いのものであるから、自分勝手ではなく、相手を思い使わなければならない。つまり個々人の責任において使わなければならない。全てが個人のスペースであると、それは住宅にはならない。共有スペースとは、浴室、トイレ、食事スペース、リビング・玄関、階段・・など。しかし、その二つの間にしっかり線引きをしてしまうと、あまりにもしんどくなる。その中間領域が必要である。それがリビングではないか。個人スペースから共有スペースへとスムーズに移るための緩衝スペースとして、共有スペースでもあるリビングにその性質を合わせ持たせるのである。
kenkenさんの本意とは、ずれているかもしれないですが、私はそのように解釈しました。
私の考えと合わせさらに解釈を進めます。
住宅は、最低限の個人の場を作り、リビングがあればいいのではないでしょうか。リビングは、物理的な面積を可能な限り最大限とり。単なる居間という性格ではなく、住宅の中にある諸機能をひとまとめにしたような場所として考えてはどうでしょうか。(そもそも”居間”とはなんなんでしょうかね?部屋[間]の間にある[居]・・・?)
なんだか、こんな風に考えると、街のように思えます。建物(個人の場所)と広場(リビング)。広場では、人々が思い思いの事をしています。しかし、そこでは、さまざま生き生きとした事が行われています。カフェでコーヒーを飲む人。ベンチにすわって本を読む人。絵を描いている人。楽しそうに話しをしている人達、ハンバーガ-を作って売っている人・・・。
でも、これって、住宅の中に置き換えられませんか?
つまり、リビングが、テレビを見たりゲームをしたりするただの居間ではなく、いろんなことができる場と考えたら、すごく暮らしが楽しくイメージできませんか?それは、いわゆる LDK なんていう、つまらないくくり方ではないんです。