若い頃は、自分の周りの街が・・東京の街並みが
嫌でしょうがなかった。
無秩序で、どの建物も身勝手で、何一つとして美しくもなくて
全部壊してしまいたいとさえ思っていた。
(別に、危険思想があったわけではなくて・・・)
今の言葉で言えば
「クソみたいな街」だと思っていた。
大学に入り 代官山のヒルサイドテラス(設計:槇文彦) を知って心が震えた。
「日本にもこんな美しい現代の街があるんだ!」と。
そして、
「街は、1人の建築家による1つの意思で作られなくてはいけない」
と思った。
私が建築の道に進んだ理由の、根源的なものは、小学生の時に見た”ヨーロッパの街並みの写真”だった。
その時にどんな事を感じたのかは、もはや覚えていない。
ヨーロッパでは普通にある石造りの建物が続き、石畳の道路、街路樹、階段もあったような気もするが、それらが醸し出す調和と美しさを、ただただ、「きれいだな」と思っていた。
今は知っている。
幾年代にも渡り、様々な様式が入り乱れ、たくさんの建築家(?マイスター)によって作られている事を。
都市計画としては、政治的な、権力者の指示によって作られた街だけど、個々の建物は、実はバラバラなのだ。
今はわかっている。
ひとりの建築家による大きなデザインで作られる街は、まったくつまらなく、魅力がない事を。
表参道ヒルズ をみればそれがわかる。
私が大学を卒業する前後あたりから起こった ”バブル” という異次元の時代。
「どうしようなく嫌だ」と思っていた街はどんどん壊されていった。
そんな事に疑問は持っていたけども、歓迎してもいた。
「統一されてデザイン性のある街に変わっていくのでは・・・」
と期待があった。
青臭い、そして世間知らずのそんな考えは、だんだんとしぼんで行く。
バブルという時代は、建築する者達も狂わせた。
人と違う事、モダンデザインと違う事、見たこともない形を作る事、見たこともない材料を使う事、を競いあっていた。
「それがデザインというものだよ」と。
表面的でうすっぺらい、どうしようもない建物がどんどん作られて、街はまるでテーマパークのようになった。
その頃、、”外圧”によって木造3階が作れるようになる。
バブルで沸騰した土地の値段は、バブル崩壊後に下落したといえ、都心の土地は、それでも高く、土地が出れば、細かく分割され木造3階が作られ、まるで、海外旅行のトランクのごとく、あらゆる場所に、家が詰め込まれていく事になる。
しかも、それらがひとつひとつ、自己主張しはじめ、色も形もなにもかも、「隣なんか関係ないね」という家が作られ、街中に広がっていく。
10代終わり頃から20代半ばに掛けて嫌っていた”どうしようもなく嫌な街”は、それから30年たった今、、、、
やっぱり どうしようもなく”クソみたいな街”になっている?
ふとそんな事を、歩きながら思った。
若い時に 「どうしようもなく嫌」だった街は、、、
もしかしたら、そう悪くはなかったんじゃないか?
なぜなら、使う材料も工法も限られていたから。
住宅は基本的に2階建だったし、どんな形にしようが、同じような材料で作られ、街としては調和があったのではないのか?
それは、もしかすると、小学生の時に写真で見たヨーロッパの街と、”材料も工法も共通”という意味で同じだったのではないのか?
取り残された、”どうしようもなく嫌だった街”の残骸のように取り残された家を見ながら、そう思った。