先日、読んでいた記事の中に書かれてこの家が気になってしまい、見学に行ってきました。
蘆花恒春園。
明治の文豪・徳富蘆花が住んでいた家です。築110年を超えています。
幾つかの建物が移築されて複雑な家が出来上がっています。
昭和の、戦後の頃にも、「どこかの家を移築して住む」という事は、あったようです。
明治・大正あたりでは、特別めずらしい話しではなかったのでしょうね。
・
この徳富蘆花の家は、ひとつひとつは、特別豪華な作りでもなく、立派な材料を使っているわけでもありません。もちろん当時としては立派な家だったのでしょうけれど、武士や豪商、または豪農が住んでいたような豪華さとは遠く離れています。
ひと言で言うなら 簡素
・
「(どこかの)家を買って移築して住む」
それがなんとなく引っ掛かりました。今はそんな事するほうが高くつくから、ほぼあり得ませんが、当時は、ある程度のお金持ち達には普通にできたのでしょうから、「家そのもの」が流通する「商品」だったという事です。
・
日本の木造住宅は、
「木を組む」と言われるように、「組んでいる」ので「ばらす」事もできました。
そして、寸法が体系化されていたので、いろいろな部材が使い回せたのです。
こうゆう建具も、もちろん。どこに持っていっても使えるのです。
そんな事を考えていると、日本の古い家というのは、今で言う「モバイルハウス」でもあるんじゃないか、と思うのです。一度ばらさないといけませんけどね。
しかも、その土地や建て主の希望で、どうにでも変形する事ができる。。
つまり、究極の「サスティナビリティー」=【持続可能性】
もっと言うと、これこそが『 メタボリズム 』(「新陳代謝」という建築思想と活動) じゃないか、と。
そんな小難しい事は置いておいて・・・
「 なんか、軽快だな~ 」
と思ったんです。
「ここ(土地)がイヤになったから、この家を移して別の土地に住む」
という事ができるんです。しかもその家は、移す時に、小さくも大きくもできるわけです。
もちろん当時、そんな事はしなかったでしょうけど。
それに比べて現在の家は、「なんだか重いな~」という感じがしてしまいます。
私は・・・
100年とか200年とか、家が存在しなくてもいいんじゃないか・・・って思うんです。
いや、「何年持てばいい」という選択肢があってもいいかな、、と。
まあ、耐震性や高気密高断熱化していくので、実際は長持ちはするようになっていくんですが。
なんだか 重いんですよね。 重量もそうだけど、考え方というか。。
昔の日本の家って、縁側 という、外と内の「中間領域」があって、ここが、日差しや明るさ、防風の調整をしていました。
環境としてはほぼ『外』なんですよ。ガラス戸なんてすき間があるし、床も天井も、板一枚で区切られてるようなもので、「とりあえず仕切ってる」だけですから。
風が吹くと、ガラス戸が「カタカタっ」と音を立てるんです。
そんなものが、、、「外皮」とでもいうよな、、薄いけど、「守られる」みたいな感じです。
有機的で、温かい
現在の家に求める事はできませんが、そうゆうルーズな部分があると、家が変わると思います。
気持ちが楽になる・・・というか。。