本郷山村留学センターの紹介

山口県岩国市の山奥にある、本郷山村留学センターを保護者目線で紹介するブログです。

山代地方史・抄

2020-10-12 09:12:15 | 参考
以下、『山口県文書館諸家文書目録 3』(平成8年発行)より。

●山代地方は、大永年間迄には大内氏の支配下に入ったと言われているが、その後、天文23年(1554)の折敷畑の戦い、翌弘治元年(1555)の厳島合戦を経て、次第に毛利氏の勢力が及ぶようになっていく。
この時期の山代地方は、大内氏(陶氏)領国と毛利氏領国との「境目」に当たり、山代の地侍に対しては双方から烈しい引き抜きと謀略が繰り広げられた。
ただし、山代八ヶ(現在の本郷村<→※平成18年以降、本郷町>を中心とする地域)が最後まで毛利氏に敵対したのに対し、山代五ヶの地域は、早くから毛利氏側に与してその傘下に入ったようである。

●江戸時代、請紙制度が実施されていた山代地方では、紙は藩の紙蔵があった奥山代宰判<→※萩城下に近い西部は前山代、遠い東部は奥山代>の南桑村(現美川町)に一旦集められた後、川舟によって岩国川<→※錦川>河口今津の御紙蔵に運ばれ、さらに、今津の山代附と呼ばれる船によって大阪・萩へと運送されたと言われている(御薗生翁甫氏『防長造紙史研究』)。

山代地手子とは、萩藩が、寛永8年(1631)の請紙制度の実施を契機として、山代地方にのみおいた独特の役職である。
渡隆光氏「山代地手子について」(『山口県地方史研究』37号)によると、
萩藩は、戦国期に大内氏や毛利氏の被官として活躍した地侍の系譜をもつ村落の有力者を山代地手子として取り立て、彼らに
①請紙制度の円滑な推進、
②諸普請や新田畑の開拓、
③猪鹿追捨狩と鉄砲稽古
などの役割を担わせたとしている。
山代地手子は寛永12年(1635)に6人が召し抱えられた後、人数は順次増加し、幕末期には41名を数えたという。

現在のところ、山代地手子に関しては前掲渡隆光氏の研究が唯一のものであり、その性格・役割がすべて明らかになっているわけではない。

●享保17年(1732)夏に、未曽有の虫害が山代地方を襲った

●寛保2年(1742)に、萩藩主毛利宗広が領内初巡見(=「御国廻」)を行い山代地方を訪れた



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