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(…彼女の博物館の 新しい一員についてあなたがたに話そう。
彼の名前は〝龍(ドラゴン)〟だ。)
【「旧約聖書」によると、龍は ティアメットと呼ばれるバビロニアの 雌龍の子孫だと言われている。
キリスト教では、龍は 悪魔の象徴であり、それゆえに、聖者の生涯を描いた あまたの絵画には、神を表す聖者たちと 悪魔を表す龍との戦いが描かれている。
西洋が 龍を悪魔と見なすのに対し、東洋は龍を 善意あるものと見なす。
中国では、皇帝が死ぬと 龍になって 天に昇ると言われていた。
そして 龍が天に昇ると、龍が踏みつける 足の重みで雲から雨が降る と信じられていた。
また中国の 神話では、龍は 宇宙の二つの力、陰と陽の秘密を 黄皇帝に明かした 天の使いとされている。
易教では、龍は 智恵を象徴するものである。
日本では、三つの鈎爪(カギヅメ)を持つ龍は、政治権力と霊力を 合わせ持つ天皇を表わす。】
この〝神々の博物館〟には はかり知れない意義がある。
それは あらゆる神々の 終焉を宣言する。
この〝神々の博物館〟のねらいは まさにそこにある。
神々は、生とは 無縁になった。
神話として、虚構として、職者が 人々を喰い物にする道具として、狂った人々の 病的な作り話として 記憶されるだけだ。
未来の人間は 神を持たない。
未来の人間は、まさに ひとりの神と な る 。
私たちは、充分長いあいだ 架空の存在の 支配を受けてきた。
今や いっさいの虚構からの 自由を宣言する時だ。
新しい人間の神は もはや 天上にはいない。
神は 新しい人間の 実存に内在するーーーより親密に、より身近に、新しい人間は 神を礼拝しない。
新しい人間は 神を生き、神を歌い、神を舞う。
新しい人間 自らが 神の寺院となる。
それゆえに、私は新しい人間を ブッダと呼んできた。
さあ、アヴィルバーヴァを呼んで、龍(ドラゴン)を 連れてこさせよう。
( 奥から 緑色の張り子の龍が ブッダ・オーディトリアムに入場し、ホールを ねり歩く。
龍は、ときおり牙を生やした口から 蒸気と煙を吹きかける。
東洋風の 音楽が奏でられ、誰もが笑っている。
笑い、中国の音楽、拍手 )
語録(スートラ)だーーー
【臨済は言った。
「私は 心地(シンヂ)の法を説く。
この法に よって人は 凡と聖の境地に入ることができる。
だが、もし自らの真俗凡聖が、あらゆるものに真俗凡聖の名を つけうると思うなら誤りだ。
真俗凡聖が〝この人〟に 名をつけることはできない。
道(タオ)を奉ずる者たちは、つかんで、働かせるが、けっして名をつけないーーーこれが〝玄旨(ゲンシ)〟と呼ばれる」】
〝心地〟とは、たんに 空っぽの心(マインド)を 意味する。
下地のみが残され、土台のみが残され、他のものは すべて去っている。
夢を見るにも、人は 生きていなければならない。
死者が 夢見ることができると思うかね?
生は、いっさいの投影、いっさいの空想、天国と地獄に住む すべての神々、あらゆる種類の神話、神学、哲学の 基盤として働く。
だが、それら すべての下地に なっているのは心だ。
禅は 心の 本質的下地の域を 超え出ることがない。
その下地の上に いかなる神話も、いかなる信仰体系も育まない。
禅は、ただ静寂なる心と ともにとどまるーーーそして、静寂なる心とは まさに無心(ノー・マインド)のことだ。
それは ただ表現の違いにすぎない。
無思考ゆえに〝無心〟と 呼んでもいいし、やはり無思考ゆえに〝心地〟と 呼んでもいい。
この心地は、ものごとに 聖、俗、物質、精神、アストラル、エーテルと レッテルを貼ることができるーーー
ーーーこの心には、現実、非現実の数限りない事物に 名前をつける力がある。
だが、〝この人〟には 名をつけられない。
臨済は 自らの自覚、その自覚から生まれる新しい人間を指して〝この人〟と 言っている。
心地は、〝この人〟ーーー新しい人間、道(タオ)の人、あるいは大悟の人に 名をつけられない。
なぜ名を つけられないのだろう?
(つづく)