「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

質問「魂が暗闇から光へと向かう必要性とは何ですか」02

2013-01-27 12:42:12 | OSHOの講話
あなたは尋ねている。「神性なるものと ひとつになる必要性とは何ですか?」。

わたしは それを こう言い換えようーーー神性なるものと ひとつになる必要性があるのは、あなたに 必要性があるからだ。
あなたに 必要性がなくなる日、もはや神性と ひとつになる必要性はなくなるーーーあなたは 神性になったのだ。

誰もが 自分の必要性から自由になりたがる。
どんな必要性にも 縛られず、ただ 無制限で果てしなく、達成すべきものは 何も残されていない 自由の瞬間を渇望する。
何も 奪い去られず、何も あとに残されない。
その 無制限さ、限り無さこそ 神だ。

神とは、どこか高いところに 座っている人がいて、彼を 見ることができ、彼は あなたを祝福し、彼の足元に あなたが座って、天国を楽しむというようなものではない。
そのような神は、どこにも 存在しない。
そんな神を 求めているなら、あなたは 幻を見ている。
そんな神は 決して見つからない。
これまで、こうした神を 見つけた人はいなかった。


神とは、あなたの意識の 究極なる至福の境地だ。
神は 人物ではなく、体験だ。
だから 神に会うとか、神に会いに行くとかーーー神が あなたの前に立ち、あなたが 神に見(マミ)える会見といった意味で、神と 対面することは決してない。
あなたが 見ているものは、すべて空想だ。
あらゆる空想や 思考が 意識から消え去ったとき、あなたは 突如として、自分が ただこの無限の世界、この存在、この宇宙の、生きている一部にすぎないことに気づく。
心臓の鼓動は、全存在の鼓動と ひとつになる。
呼吸は 存在とひとつになり、生命力は 存在とひとつになって脈動する。
いかなる境界も 残らず、あなたと存在のあいだには 何の違いもない。

そのとき あなたは知る。
「アハーム-ブラフマースミーーー我は神なり」と。
そして「我」として 知っていたものは、全存在の 欠くことのできない一部であることを覚る。
「我は 存在なり」ーーーわたしは これを、神の体験と呼ぶ。


もう質問は おしまいだ。
わたしに一人で会いたい人、個人的に質問したければ、しばらくのあいだ 会ってもいい。


OSHO「ディヤン-スートラ」瞑想の道より抜粋、(~P.286)

質問「魂が暗闇から光へと向かう必要性とは何ですか」01

2013-01-27 11:30:37 | OSHOの講話

魂が 神性へと消え去らねばならないのは、生というものが、痛みや 苦悩を通しては決して満たされないからにほかならない。

別の言葉で言えば、生は常に、苦悩を受け入れられないということだ。
生は 常に至福を求める。
苦悩することは、神性から 離れることだ。
あなたが 神性と ひとつになったら、生は 至福となる。

だから、これは 神や 神性の問題ではない。

あなたが 苦悩から至福へと 向上する問題であり、内側に存在する 暗闇から光へと向かう問題だ。
しかし 必要性がないと感じるなら、苦悩に満足することだ。

だが、惨めでいることに 満足できる人などいない。
惨めさは、まさにその性質からして、あなたを 自分自身から 引き離す。
至福は、まさに その性質からして、あなたを 自分自身に引き戻す。
世俗は 惨めなものであり、神性は 至福だ。
神性と 溶け合う必要性は、宗教的な必要性ではない。
神性と 溶け合う必要性は、根本的な必要性だ。

人が神に ノーと 言うことは あるだろうが、至福に対して ノーと言う人は 誰もいない。
だから わたしは、無神論者など存在しないと言う。
至福を 拒否する人だけが、無神論者になれる。
この世の誰もが 有神論者だーーー誰もが 至福に渇きを覚えている という意味で、有神論者だ。

有神論者は 二種類いる。
ひとつは 世俗的な有神論者、もうひとつは 霊的(スピリチュアル)な 有神論者だ。
一方は 世間を信じ、世間を通して 至福を見出すと信じている。
もう一方は、霊的な世界においてのみ、至福を知ると信じている。
あなたが 無神論者と呼ぶ人は、世間に対する態度においては 有神論者だ。
彼らの探求も 至福なのだ。
彼らもまた、至福を求めている。
そして 遅かれ早かれ、この世間に至福はないと覚(サト)るとき、彼らには 霊的なことに興味を抱く以外に選ぶ道はない。


あなたの 探求は至福に向かっている。
神性を探求する人は誰もいない。
あなたの希求は 至福へと向かう。
至福とは 神だーーーわたしは 完全なる至福の状態を 神と呼ぶ。
完全な至福の境地にある瞬間、あなたは 神性だ。
つまり、内側に欲望が残っていないとき、あなたは 神性になる。
完全なる至福とは、欲望が残っていないことを意味する。
まだ いくらかの欲望があったら、依然として いくらかの惨めさもある。
もはや どんな欲望もないとき、あなたは 完全なる至福の中にあるーーーそのとき はじめて、あなたは 存在とひとつになる。

(つづく)

(質問) エゴのエネルギーは 何に変化させるべきですか?…… 03

2013-01-27 09:54:20 | OSHOの講話
(……しかしエネルギーは同じだ。)

癇癪持ちの人のエネルギーが 変容されると、彼らは それと同じくらい 慈悲に溢れる。
なぜなら、エネルギーが 新しい形をとるからだ。
エネルギーは 破壊されない。
ただ 新しい形をとるだけだ。

はじめのほうで 言ったが、精力旺盛な人こそ、真の禁欲を体験する人だ。
なぜなら、まさに その性エネルギーが変容され、禁欲となるからだ。
しかし エゴが消えるとき、それは 別のものにはならない。
というのも、そもそも それはただの 無知だったからだ。
それが 変容することは 決してないーーーただの 幻想だったのだ。
暗闇にいる人が 綱を蛇だと思い、しかし 近づくと 実は綱だったと わかるようなものだ。
そして彼に「何が 蛇に化けたんだい?」と尋ねると、彼は「何も蛇には化けていなかった。蛇など いなかったんだよ」と言うだろう。
それが 別のものに 変わることはない。


同じように、エゴとは あなたの実存に関する 誤解の結果だ。
それは実存についての 幻惑された認識だ。
エゴを 実存だと思うことは、綱を蛇だと思うことと同じだ。
実存に 近づくにつれ、あなたは エゴが存在しないことに気づく。
だから、それは 何ものにも変容しない。
決して 変容することはない。
それはただ、存在しないのだから!
それは、そこにあるように見えた 幻にすぎなかった。
エゴとは 無知であり、エネルギーではないーーーしかし無知があるなら、それは エネルギーを誤用するきっかけとなる。
エネルギーの誤用こそ、無知の中で 起こることだ。

だから 覚えておきなさい。

エゴは 変化しないし、変容もしない。

エゴは ただ消え去る。

その意味では エネルギーではないのだ。



最後の質問だ。

なぜ、魂は存在と 溶け合う必要があるのですか?


あなたは「魂が至福へと消え去る必要性とは何ですか?」「魂が健康になる必要性とは何ですか?」と尋ねたほうが よかっただろう。
「魂が 暗闇から光へと向かう必要性とは何ですか?」と尋ねた ほうがいいだろう。

(つづく)

(質問) エゴのエネルギーは 何に変化させるべきですか?…… 02

2013-01-27 01:09:00 | OSHOの講話
ラーマクリシュナは、よくこんな物語りを話したものだ。

昔、塩で作られた像が 浜辺の祭りを見に行った。
海が 果てしないのを見た。
道で誰かが、「どれくらい深いのだろう?」と尋ねた。

像は言った。
「行って つきとめてくるよ」
そして 彼は水に飛び込んだ。
何日も過ぎ、何年も経ったが、像は 戻らなかった。
彼は、「行ってつきとめてくるよ」と言った……だが、彼は 塩で作られた像だったのだ。
大洋に 飛び込んだ瞬間、塩は 溶けて消えてしまった。
そして 彼は、決して大洋の底を 見出すことはなかった。

神を求めて 大洋の深みを探す 「わたし」 は、探求の中で 消え去る。
それは 塩で作られた ただの像であって、エネルギーではない。


そう、あなたが 神性の探求に乗り出すときは、「わたしは 神性を見つけるつもりだ」 という思いから始める。
しかし 探求を続けるうちに、神性は どこにも見当たらず、探求者も消えつつあることに気づく。
「わたし」が 完全に空っぽになる時が 訪れる瞬間、あなたは 自分が神性を見出したことを発見する。

つまり、「わたし」 は 決して神性に出会わない ということだ。
「わたし」が いないとき、そのとき はじめて神性はある。
しかし「わたし」 がいるかぎり、神性は 決して見つからない。
だから カビールは、「愛の道は とても狭いーーーその上に二人はいられない」 と言ったのだ。

いられるのは、あなたか 神性のどちらかだ、あなたが いるかぎり、神性は 存在できない。
そして あなたが消えるとき、神は 存在する。

このエゴは、ただの無知だ。
あなたの 生エネルギーの多くは、この無知ゆえに 誤用されている。
正しく使えば、エゴは 餌を得ることなく、徐々に 消えていく。


だから、わたしが 生の浄化の 三つの実験と呼んだものーーー身体の浄化、思考の浄化、そして 感情の浄化を試みるなら、この 三つの実験を やり続けるなら、ある日 エゴが消えてしまったことに 気づくだろう。
怒りは 消えないが、エゴは 消える。
怒りのエネルギーは 新しい形でそこにあるが、そこに エゴはない。
エゴが消え去るとき、あとには何の痕跡も残らない。
怒りやセックスは 消えるのではなく変容される。
それらは 違う形で存在する。
怒りのエネルギーは とどまるが、違う形をとる。
それが 慈悲になることもあり得るーーーしかし エネルギーは 同じだ。

(つづく)


(質問) エゴのエネルギーは 何に変化させるべきですか?…… 01

2013-01-26 18:48:00 | OSHOの講話
「エゴのエネルギーは 何に変化させるべきですか?」

すでに話したが、怒りのエネルギーが生じたら、それを 創造的に変容できる。
わたしは、それがセックス-エネルギーだとしたら、それもまた変容できるとも言った。
怒りや セックスや 強欲は エネルギーだが、エゴは それと同じ意味合いでは、エネルギーではない。
その意味では、エゴは エネルギーではない。
怒りは 時おり湧き起こり、性欲は たまにしか存在しない。
強欲が あなたの意識をとらえるのも時たまだ。
エゴは、時たま存在するだけではないーーー光明を得るまで、常に あなたとともにある。

エゴは エネルギーではなく、あなたの 実存の状態だ。
それは 来ては去っていくものではない。
常に あなたとともにある。
あなたの あらゆる行為の背後に立っている。
それは あなたの状態だ。
そのせいで さまざまなことが起こるが、エゴそのものは 常にそこにある。
怒りは エゴゆえに生じる。
あなたが エゴイストなら、より怒りっぽいだろう。
エゴイストなら、より名声に貪欲で強欲で、より権力に 飢えているだろう。
あなたが エゴイストなら、エゴゆえに こうしたことが湧き起こる。
エゴは あなたの 意識の状態だ。
そこに 無知があるかぎり、エゴは 存在する。
しかし 知が生じると エゴは消え去り、あなたは その場で 自らの実存を体験する。


エゴは、あなたの 実存を取り巻く 見えない覆いだ。
エゴは 実存の周りにあるカーテンだ。
それは エネルギーではなく、無知なのだ。
この無知ゆえに、さまざまなエネルギーが 湧き起こる。
それを 破壊的に使うと、エゴイスティックさは 強まる一方だ。
しかし、こうした湧き起こるエネルギーを 創造的に使うと、エゴの強さは 弱まり続け、エゴイスティックさは 弱まっていく。
エネルギーが すべて創造的に使われるなら、ある日 エゴは消え去る。
そして エゴの煙りが 消え失せるとき、あなたは その背後で、自らの 実存の炎に出会うだろう。
エゴの煙りは、あなたの 魂の炎を取り囲んでいる。
無意識が 晴れるとき、エゴという煙りが一掃されるとき、「わたし」という層が すっかり消え去るとき、そして「わたしは在る」という考えも 消え去ったとき。
あなたは 深みを体験する。


ラーマクリシュナは、よくこんな物語りを話したものだ……

(つづく)