あなたは尋ねている。「神性なるものと ひとつになる必要性とは何ですか?」。
わたしは それを こう言い換えようーーー神性なるものと ひとつになる必要性があるのは、あなたに 必要性があるからだ。
あなたに 必要性がなくなる日、もはや神性と ひとつになる必要性はなくなるーーーあなたは 神性になったのだ。
誰もが 自分の必要性から自由になりたがる。
どんな必要性にも 縛られず、ただ 無制限で果てしなく、達成すべきものは 何も残されていない 自由の瞬間を渇望する。
何も 奪い去られず、何も あとに残されない。
その 無制限さ、限り無さこそ 神だ。
神とは、どこか高いところに 座っている人がいて、彼を 見ることができ、彼は あなたを祝福し、彼の足元に あなたが座って、天国を楽しむというようなものではない。
そのような神は、どこにも 存在しない。
そんな神を 求めているなら、あなたは 幻を見ている。
そんな神は 決して見つからない。
これまで、こうした神を 見つけた人はいなかった。
神とは、あなたの意識の 究極なる至福の境地だ。
神は 人物ではなく、体験だ。
だから 神に会うとか、神に会いに行くとかーーー神が あなたの前に立ち、あなたが 神に見(マミ)える会見といった意味で、神と 対面することは決してない。
あなたが 見ているものは、すべて空想だ。
あらゆる空想や 思考が 意識から消え去ったとき、あなたは 突如として、自分が ただこの無限の世界、この存在、この宇宙の、生きている一部にすぎないことに気づく。
心臓の鼓動は、全存在の鼓動と ひとつになる。
呼吸は 存在とひとつになり、生命力は 存在とひとつになって脈動する。
いかなる境界も 残らず、あなたと存在のあいだには 何の違いもない。
そのとき あなたは知る。
「アハーム-ブラフマースミーーー我は神なり」と。
そして「我」として 知っていたものは、全存在の 欠くことのできない一部であることを覚る。
「我は 存在なり」ーーーわたしは これを、神の体験と呼ぶ。
もう質問は おしまいだ。
わたしに一人で会いたい人、個人的に質問したければ、しばらくのあいだ 会ってもいい。
OSHO「ディヤン-スートラ」瞑想の道より抜粋、(~P.286)
わたしは それを こう言い換えようーーー神性なるものと ひとつになる必要性があるのは、あなたに 必要性があるからだ。
あなたに 必要性がなくなる日、もはや神性と ひとつになる必要性はなくなるーーーあなたは 神性になったのだ。
誰もが 自分の必要性から自由になりたがる。
どんな必要性にも 縛られず、ただ 無制限で果てしなく、達成すべきものは 何も残されていない 自由の瞬間を渇望する。
何も 奪い去られず、何も あとに残されない。
その 無制限さ、限り無さこそ 神だ。
神とは、どこか高いところに 座っている人がいて、彼を 見ることができ、彼は あなたを祝福し、彼の足元に あなたが座って、天国を楽しむというようなものではない。
そのような神は、どこにも 存在しない。
そんな神を 求めているなら、あなたは 幻を見ている。
そんな神は 決して見つからない。
これまで、こうした神を 見つけた人はいなかった。
神とは、あなたの意識の 究極なる至福の境地だ。
神は 人物ではなく、体験だ。
だから 神に会うとか、神に会いに行くとかーーー神が あなたの前に立ち、あなたが 神に見(マミ)える会見といった意味で、神と 対面することは決してない。
あなたが 見ているものは、すべて空想だ。
あらゆる空想や 思考が 意識から消え去ったとき、あなたは 突如として、自分が ただこの無限の世界、この存在、この宇宙の、生きている一部にすぎないことに気づく。
心臓の鼓動は、全存在の鼓動と ひとつになる。
呼吸は 存在とひとつになり、生命力は 存在とひとつになって脈動する。
いかなる境界も 残らず、あなたと存在のあいだには 何の違いもない。
そのとき あなたは知る。
「アハーム-ブラフマースミーーー我は神なり」と。
そして「我」として 知っていたものは、全存在の 欠くことのできない一部であることを覚る。
「我は 存在なり」ーーーわたしは これを、神の体験と呼ぶ。
もう質問は おしまいだ。
わたしに一人で会いたい人、個人的に質問したければ、しばらくのあいだ 会ってもいい。
OSHO「ディヤン-スートラ」瞑想の道より抜粋、(~P.286)