(…私の父親は「もう どうにもならない」と 日記に書いていたが、まさに「もう どうにもならない」のである。)
まだ 母親に見守られながら 泥んこ遊びをしているのが適切な人なのに、つまり それが幸せなのに、間違って結婚をしてしまい、さらに、間違って父親になってしまい、挙げ句の果てに 生計を維持するために職場で働かなければならなくなってしまった。
この時に、どんなに (私の)父親を愛する人が現れても、父親を 地獄から救うことはできない。
父親を どんなに愛している女性が現れても、女として 父親を愛している のなら、父親を地獄から救うことはできない。
「あなたも父親なのだから」という発想で 父親に接するからである。
そうした発想の女が 父親を愛しても、父親は 地獄のうめきを続けたであろう。
現実に、息子の私に やっていることは酷いことだったのだから。
バランスの取れた まともな社会人であれば、その女性は 父親のしていることを許せないであろう。
父親なんだから父親としての 役目を果たしてあげて下さい、ということになる。
では、父親を救うことができる女性は どういう女性であろうか。
父親を絶賛して、そのあとで「あなたの両親は 本当に酷い人だったわねー」と 父親の 愛情飢餓感に 安らぎを与え、そのうえ「酷い女に 捕まってしまって」と 母親を非難して、憎しみの感情の はけ口を作ってあげる。
そして、
その後が 大切なのである。
こんな状態で「あなたが 子どもが嫌いなのは 当たり前よ」と、父親の立場を 罪悪感なしに 捨てさせてくれる女性である。
社会人として まともな女には なかなかできない。
【 社会的には 五歳の幼児なのに、六人の子どもの父親になる 】
父親は、とにかく心理的には 五歳の幼児なのに、六人の子どもの父親に なってしまったのである。
そこで
「なんて言い訳したって あなたは現実に 父親なのだからーーーーーー」という言い方の女性は、父親を地獄に突き落としたままにする。
「なんて言い訳したってあなたは現実に父親なのだからーーー」という言い方は、社会的には 正しい言い方なのである。
事実は、とにかく父親なのだから。
社会は、父親に父親としての義務を果たすことを強制してくる。
しかし この言い方は、社会的な正義の視点からは当たり前でも、五歳児の父親の心理としては 無茶苦茶な 言い方なのである。
「誰も 俺を愛さないで 俺を五歳児のままにしておいて、今度は 俺に父親の義務を果たせ と言っても無理だ」というのが 五歳児の父親の 立場に立った言い分なのである。
社会的正義を 無視して、この五歳児の立場を理解するのが、近親相姦的願望を 満たす愛なのである。
この父親の 近親相姦的願望を満たす愛は、父親を 心理的に成長させるが、子どもにとっては許せない愛情になる。
相手が幼児の時には 近親相姦的願望を満たす愛は、まさに「母なる愛」であるが、相手が社会的に責任ある立場に立った時には、それは とんでもない独善的愛情になる。
関係者にとっては、その人は「母なる愛」を持った やさしい人ではなく、氷のように冷たく傲岸不遜な独善の人になる。
私の父親の場合には、この近親相姦的願望を満たす女性は 現れなかった。
そこで父親は、社会的には 夫であり、父親であることに 甘んじなければならなかった。
そうであれば、はけ口を失った 恨み憎しみの感情から身動きできなくなり、「もう どうにもならない」心理状態になるのは 当然である。
だから、「もうどうにもならない」と呻き続けて生きたのである。
確かに「もうどうにもならなかった」に 違いない。
(つづく)