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原爆投下の翌年 日赤病院で手術

2020-08-06 16:02:00 | 日記

こんにちは。今日は広島原爆の日です❗️投下1年後爆心から2-キロの千田町3丁目に住んでいました。今から76年前に、ある時、左腿の内部にオデキが 小柄な母が私を負ぶって広島日赤病院へ 両足と両手をベッドに縛られ 麻酔無しで手術を、毎朝 ウミを遺さぬ様にリバガーゼの交換が痛い痛いと泣いていました。お陰様で76年後の今日まで健在です。


被爆の翌年 同級生からの会話

2020-08-06 14:21:00 | 日記

こんにちは。今日は広島原爆の日です❗️投下1年後爆心から2-キロの場所で一年程住みました。当時広島市内に住んで被曝を免れた同級生からの会話から  此の酷暑の中での原爆で身体全体にやけどをおった人がいっぱい 水を求めて 身体を冷やすために川へ飛び込んだら 川全体がお湯の様な温度であったと言っていました。まさに地獄絵そのものであったでしょう。戦争は二度と起こしてはいけない、亡くなった人へ申し訳が立ちません。


原爆投下の翌年の記憶

2020-08-06 13:50:00 | 日記

こんにちは。今日は広島原爆の日です❗️投下1年後爆心地から2キロの地点に住みました。

畑にはスイカや夏野菜はできていましたが。学校はバラックができていましたが、全生徒を収容不可故 グループ毎に倉庫で家から各自 洗濯板位の板を持参 近くにあるレンガを3段づつ積み机代わり

授業内容は先生の被爆体験がメイン、午後からは給食に使う鉄道草(ぺんぺん草)を取りに、それを茹でて食べたり 少しして米軍からの支給か?パイナップルジュース 脱し粉乳ミルクが出た。何処も食糧難で、穀物と言えば   米は少し サツマイモ やかぼちゃが主でした。遊んだ記憶は川へ家からふんどしのママ、泳ぎに行き、干潮時にはシジミをとったりしていました。戦争は二度と起きて欲しくないですね。