西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

宮本憲一先生の先生の水田 洋先生に会う

2006-12-26 | 京都の思い出(助手時代)
今日、宮本憲一先生の環境経済学確立という業績に対する京都新聞「文化学術大賞」受賞記念パーティがあり、滋賀県の石山まで出かけた。宮本さんは、金沢の旧制・四高の出身で私と同郷、1953年名古屋大学経済学部卒、金沢大学助教授を経て大阪市大教授、立命館大学教授、滋賀大学学長歴任の先生である。宮本さんの後に学長となった成瀬龍夫さん(私が奈良女の学生部長と時、彼も滋賀大学生部長、京大経済学部卒)の配慮によるパーティであった。宮本さんと言うと、公害という言葉を国民の間に定着させた人、私は京大助手の時に宮本さんがヘッドの科研費による学際的調査研究で水俣病患者の住宅問題を調べてまとめた。
私としては、西山卯三先生始め建築・地域計画関係の先学、先輩を除く専門外で教えを直接身近に受けた先生は、自然科学関係では、前に紹介した木村春彦先生(国土研理事長、京都教育大学教授歴任、故人)http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/6d7f25ad87d03a005a02f0b1f3a3fc21
そして社会科学関係では、この宮本憲一先生と言ってよい。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/2338e263d2edf9bdbc206308479df5e2で、今日のパーティでは久しぶりに懐かしい人たちに多数あったが、宮本先生の名古屋大学での先生、水田 洋先生(日本学士院会員、名古屋大学名誉教授・社会思想史)に初めて会うことが出来てよかった。水田先生は東京商科大学(現・一橋大学)のご出身(高島善哉先生門下)、1919年生まれで87歳、お元気な秘訣を聞くと、「権力と闘うことです」と言われた。検索情報では、「自衛隊イラク派兵差し止め訴訟」の原告になっておられる。http://www4.pf-x.net/~sashidome/nagoya_web/koutoubenron_mizuta.htm
私は、住宅・居住地の計画・設計の専門です、と言ったら水田 洋先生は「私の家は名工大の服部千之さん(故人)に設計してもらいました」と言われた。へー世の中狭いものだ、と思った。隣りで聞いておられた三村浩史先生(京大名誉教授、京大建築大学院修士1959年修了)が、「服部君とは大学院同期です」と話しておられた。

鯖寿司の「いづう本店」

2006-12-11 | 京都の思い出(助手時代)
熱心なコメンテーターの「ゆうぜん」さんのコメントで「いづう」の鯖姿寿司を思い出した。久しく食べていないが、最初に口にしたのは豊田から京都に転勤になった30歳台で30年以上前である。未だお元気だった名工大の服部千之(はっとり・ちゆき)先生が京都に来られて「いづうの鯖寿司を買いに行こう」と言われた。店は確か祇園の花見小路辺りにあったのではないか。1本が千円位だったと思うが、今はいくら位だろうか。「美味いもの好き」の服部さんを懐かしく思い出した。残念ながら服部先生は50歳台で亡くなられた。普通の鯖寿司を食べる時でもふと思い出す。

西山夘三記念文庫に関連する活動、思い

2006-10-19 | 京都の思い出(助手時代)
ふと西山夘三記念文庫にネットで入って、私の発言を調べたら次のようなのがあったので、ブログでも再掲し紹介しておきたい。中々時間がなく、ここで言っている色々なアイデアに取り組めないのだが、一緒に取り組んでくれる人いませんでしょうか。

・西山夘三日記研究・事始め  1999/10/22(西村一朗)
 1級の一次資料としての西山日記は、研究史研究の上で避けて通れないものであろう。そこで、来年の企画展示に向けて少し作業を始めた。まず、戦前の日記類については、もう50年以上経過しているし、西山先生自身が、2冊の本で自らの戦前の研究史を明らかにしているので、公開に踏み切り、編集・公刊も出来ればしたら良い、と思う。そこで、現在のところ余り問題がなさそうな戦前のものを読み始めた。これが又面白いのであるが、例の字なのでつかえつかえ読んでいる。昭和10年代の西山先生が大学を出て、結婚前の、又例の「食寝分離論」前の1冊のノートは、日を追っての日記というより、頭にある様々なコンセプトについて公私、ジャンルを問わず小文でまとめているものがある。そこには、その後、きちんとまとめられた「標準設計」についての覚え書きもあるし、「禿頭の効用」といった項目もある。これを見ていて、スケッチと共に音楽にも執着している西山先生を発見した。「出来ればピアノの出来る女性と結婚したい」との文言も見える。

◆「建築の研究」誌への投稿の折りに考える  1999/11/5(西村一朗)
 「建築の研究」12月号に掲載されることになり、私としては、広原盛明理事長の「建築雑誌」年報1999への掲載論文とともに読んで欲しいと願っています。
 菊岡さんと手紙でのやりとりの中、私は「成熟社会では、将来のことばかり云々すると言うより、半分は過去を顧みつつ、半分は将来を展望する、いわば半顧半望(はんこはんぼう、私の造語)が重要。その意味で、研究史が大切、西山記念文庫は、そのネットワークの核と位置づけられる」と。大学でも「アーカイブズ」(公文書保管所)が情報公開の動きとも連動して取り上げられつつあります。西山記念文庫の取り組みは、その意味でも先駆的・研究的な取り組みと言えるでしょう。そのネットワークの各節は、縦には西山夘三の「先生と弟子筋」ですが、横には「今 和次郎、高山英華、玉置豊次郎、吉阪隆正、池辺 陽、佐々木嘉彦、・・」の諸先生方です。こういう情報化の時代ですから基本的に電子情報ネットワークとし、どうしても現物に触れる必要のある場合には出向くといったネットワーク型の「アーカイブズ・ミュージアム」に成長するだろうと予想していますが、どうでしょうか。

◆文庫活動ふたつのアイデア  1999/11/8(西村一朗)
(1)NPO記念展示について・・・美術館、博物館のように目玉な物があっても、展示をどうするか。現在、戦前の日記類を探索して、展示をどうするか考え中である。美術品なら、ぱっと見ればとにかく「分かる」。文章は、全体の展開を追って行かないと理解できない。そこで、一つは、現物の拡大コピーを手に取るように置くこと、もう一つは特に注目すべき所を更に拡大し展示することだ。その際、あの分かりにくい文字を一部ワープロ化すべきであろう。日記以外に戦前の物で是非展示したいのは西山先生の学位論文の複製製本である。写真は、人の広がりが分かるように選んだらよいだろう。
(2)すまいとまちを訪ね語る会の開催・・・これは安藤イツ子さんとの共同アイデアと言っても良い。西山先生も、ある時に「住宅クラブ」が将来出てくるかも・・と言っておられるが、自分の家との対比であれこれの家を深く理解したいという要求が広く出てきていると思う。そこで、住宅だけでなく、まちも含めて訪ね語る会を実費で気軽に行ったらどうか。市民版としては、多くの変わった家の多い、近辺を探索(滋賀から兵庫まで)、専門家(卵)版としては、西山夘三訪問地へ行く。その際、記念文庫にはスケッチの得意な人材も多いので「スケッチ講座」も行うというのはどうだろうか。

◆『日本のコミュニティー』を共同テーマに!  1999/11/12(西村一朗 )
 西山夘三著『日本のすまい』の序言に「この作業に取り組んでいて、日本のコミュニティーという課題もあると思ったが、時間がないので別にゆずりたい・・」といった趣旨の発言があったかと思う。これは西山先生の一つの「遺言」でもあると考えて、記念文庫集団で取り組んだらどうだろう。一つの共同テーマである。もちろん、社会学等でも取り組みがあると思うが生活と空間の絡み合いでの取り組みは我々の真骨頂ではなかろうか。
(写真は、ありし日の西山先生)


安藤元夫君の偲び草

2006-07-02 | 京都の思い出(助手時代)
今日、安藤元夫君(京大建築後輩、元近畿大学教授、西山記念文庫理事長)の奥さんから「五十日祭」の挨拶と偲び草が送られてきた。もうそうなるのだな、と思った。何故「偲び草」というのか、インターネットで調べて見た。人は死ぬと「風」になるとは「千の風になって」(新井 満)だが、草の根の草にもなるようだ。そう言えば、芭蕉は次のような句を作っている。
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
安藤元夫君も「つゆ草」になっているのだろう。

三村浩史研究室、西山卯三研究室

2006-04-29 | 京都の思い出(助手時代)
私が京大で助手をしていたのは、1970年から1974年の4年間で前半の2年間が三村研、後半の2年間が西山研だった。当時の院生は、安藤元夫君をはじめとして皆、元気がよかった。今、大学をはじめとしてそれぞれ大活躍している。
それに対して、自分としては、前半の2年間でやったこと、というかやりだしたことは二つあって、一つは水俣地域の調査研究、もう一つはパトリック・ゲデスの「Cities in Evolution(進化する都市)」の翻訳に取り組んだことである。水俣のことは、後に宮本憲一編『公害都市の再生・水俣』(筑摩書房)にまとめて載せてもらった。ゲデスの本は後に奈良女子大に移ってから1982年に鹿島出版から私の編著で出してもらった。後半には、西山先生のご退官間際で「ざわざわしていた」こともあって、京都府伊根町(漁村)の計画に関する調査に取り組み簡単な報告書をまとめただけである。水俣、ゲデスゆかりの地、伊根町等へは、又ゆっくり行って見たいと思っている。言ってみれば「35年後の訪問」である。

吉田上大路町のアパート、松ヶ崎正田町の建て売り住宅

2005-12-19 | 京都の思い出(助手時代)
私は、豊田高専に4年間勤めて京大に助手として転勤となった。(1970年)最初は、大学に近い方が良いと思い吉田上大路町の清和荘という木造アパートに住んだ。2間にDKの狭い家で家内が最初に引っ越したとき「がっくり」きていた。比べて高専の官舎は感謝しないといけないほど良かった。しかし、そこから京大には歩いて10分の至近距離で便利は便利だった。後輩のK.君の紹介による。そこに2年ほどいて松ヶ崎正田町の建て売り住宅を買って移った。西陣のマンションにも一旦入居しようとしたが、中庭駐車場の排気ガスが上に上がってくるのが分って即座に売却、当時だから損はしなかった。松ヶ崎の建て売り住宅は5戸一ではなかったか。端から二番目の住宅だった。2階建て、1階、2階に各2部屋があった。位置は、京都工芸繊維大学の馬橋門のすぐ近くで京都工繊大には散髪その他日常生活でも出入りしていた。8月の送り火の時、グランドから「妙法」を北に見た。娘は小学校3年生まで松ヶ崎小学校だった。馬橋は高野川に架かる橋で私はそこから京都バスで百万遍までいって京大に通っていた。ここには、京大から奈良女子大に1974年に転勤になっても少しいた。やがて、ここから伏見区の向島ニュータウンに替わるがこの三軒が今まで家族で京都市内に住んだ家である。(写真は、送り火の「妙」)
私の居住歴から(11月8日のブログより):1970年4月~1973年10月 京都市左京区吉田 民間アパート 借間・木造/ 1973年10月~1978年3月 京都市左京区松ヶ崎 建売住宅(連棟) 持家・木造二/ 1978年3月~1994年11月 京都市伏見区向島 テラスハウス(連棟) 持家・RC/その間1982年10月~1983年8月 ロンドン・ミルヒル セミデタッチド 借家・煉瓦二

京大・楽友会館

2005-12-04 | 京都の思い出(助手時代)
京都東山通りの近衛通りを東に入って直ぐの所に京大・楽友会館がある。2階建てで大小の集会室とレストランがある。京大・吉田寮の南にある。森田慶一先生(東大建築卒、分離派、武田五一先生の後任、西山夘三先生の前任)の設計で1925年(大正14年)頃の建設である。玄関の屋根を支えるY字柱は、最近のロンドン・テームズ川の「ミレニアム橋」の支柱を思い起こす。(9月25日ブログ参照)ここで、学生時代から様々な会合が行われ、出席してきた。また何度も京大関係の知り合いの結婚式が行われ披露宴に参加している。1983年にロンドンから戻って後、LSEの森嶋通夫さんのお話をここで伺ったこともある。別に京大会館が出来てから、会合がそちらに移って、楽友会館に行く事が少なくなった。
私が、京大助手の頃、家族で吉田上大路町のアパートに住んでいたことがあり、娘が1歳から4歳といった時だが、しばしばここのレストランで家族3人の食事をした。娘は子供用の補助椅子で、好物はハンバーグだった。それから30年以上が過ぎた。娘の子供が、つまり私の孫は4歳と9歳である。(写真は、森田慶一作の京大楽友会館)

お祭り広場

2005-10-26 | 京都の思い出(助手時代)
今、秋祭りもぼちぼち終りに近づいた。「お祭り広場」という言葉を聞いたことがありますか。これは、1970年(昭和45年)の大阪万博のメインテーマで、メイン場所の名前だった。国家的行事で、関西で開かれたので、プロデュサーは東大の丹下健三さんと京大の西山夘三先生となった。丹下さんには磯崎 新さん、西山さんには上田 篤さんが事務局としてついた。私は、詳しい経緯は承知していないが、「お祭り広場」というネーミングは、恐らく上田 篤先生が、先ず言い出されたのではないか・・と思う。「お祭り」は、多数、日本にある。国民、地域住民の最大イベントだ。日本三大祭りとか京都三大祭り、あるいは東北の夏祭り等色々あって「出し物」にこと欠かない。大阪万博では、それと「広場」というのを結合させたのが「味噌」である。広場は、本来、日本には伝統がなく、西洋のものだ。ギリシャのアゴラやローマのフォルム等がそれだ。日本の祭りは、基本的には「行列」で町をねり歩く。祇園祭りを考えてみれば分かるだろう。それを、西洋的広場でやったので世界的イメージを獲得したのだ、と私は思う。

西山卯三先生の思い出(21)西山卯三と西山夘三

2005-10-26 | 京都の思い出(助手時代)
今までブログで恩師の西山夘三先生(故人、京大教授、名誉教授、「食寝分離論」を提起、日本の科学的住宅計画の創始者)について西山卯三と表記してきた。私のブログを熱心に読んで頂いている方(G.さん)から「卯三は、夘三ではないのか」という注意があった。実は、全くその通りである。以後、表記を改めたい。これには事情があって、一つは、ある時期まで西山先生ご自身が「卯三」を認めて、著書にもそうなっていること、だからあながち「間違い」ではないこと、もう一つは、私のパソコンソフトの辞書に「夘三」がなかったことである。以後、その方(G.さん)の「字」をパソコンに登録したので、以後「夘三」と表記できるから、そうしたい。他にも、それに気付いていた方もおられるだろうが、今までのこと、お許し願いたい。このように私のブログについて何でもコメントしていただくと有難い。
ところで、西山先生に「建築やる人は案外に三男がいるのですね」と言ってみたことがある。早速、西山先生は、何かの著書に、それについて書かれている。丹下健三、坂倉準三さんなどがそうである。三男くらいになると、「まあ海のものとも山のものともわからないが、建築家でも良いか」ということかもしれない。残念ながら私は「一朗」で長男である。

加藤邦興さんを偲ぶ会(8)会った人々

2005-10-16 | 京都の思い出(助手時代)
今までに登場した宮本憲一、馬奈木昭雄、畑 明郎さんのほか、会の世話をした加藤さんの弟子の田口直樹さん(助教授)、院生の山崎文徳、藤木寛人さん、羽衣国際大学の蔡 明哲さん、ソウルの京畿大学の辛龍夏さん、この二人は加藤さんの指導で学位(商学博士)を取得、弁護士の村松昭夫、鶴 叙(のぶる)、高橋 敬、山川元庸さん等に会った。志岐常正先生(京大名誉教授、国土研)にも会った。
田口直樹さんは、立命館から大阪市大の院に来て加藤ゼミ、修了の後に金沢大学経済学部に七年行っていたという。林勇二郎学長(私の高校同期)や経済学部にいたイギリスで昔一緒だった小林 昭さんの消息を聞いたら、小林さんは2年前に亡くなったとのこと、愕然とした。宮本憲一先生が金沢大学におられた時のお弟子さんで1982年から1983年にかけロンドンのLSEで私と一緒に文部省在外研究員だった。私が金沢出身ということで親しくしていただいた。ご冥福を祈りたい。

加藤邦興さんを偲ぶ会(7)馬奈木弁護士との会話

2005-10-16 | 京都の思い出(助手時代)
馬奈木さんとも久しぶりに会ったので「偲ぶ会」や二次会で色々喋った。私が、水俣病患者の住宅を調査した時、大変世話になった人だ。私と一緒に調査した山川元志君(当時、京大院生、10月8日ブログ「ベラシティハウス(山川元志さん)に寄る」参照)が、その後、馬奈木さんが久留米で家を建てるときに設計を担当した。20年以上経っているが、びくともしない、山川さんに感謝したいと言う。木造住宅も山川君のように造れば、手入れをしつつ何時までも持つであろう。私も見に行ったことがある。ところで、馬奈木さんとの会話で三つほどメモしておきたいことがある。一つは、水俣のヘドロ(ドベ)は、上に単に土を被せただけで「放置」されているが、あれがきちんと処理されてこそ、日本の「産廃問題」が解決に向かうということ。これについては、横から畑 明郎君(大阪市大教授)が神通川のイタイイタイ病関連の産廃処理を指導した立場から、「その通りだろうな」と感想を言っていた。私も、一寸前に、宮川智子さん(和歌山大学助教授)が、建築学会の技術報告書に工場跡地の「汚染処理」に関する報告を書いた時に、そのコメントを書いたことがあるが、そこに、水俣のヘドロ処理のことにもふれたことを思い出した。馬奈木さんによると、最近、水俣市長は「水俣に産廃地を造っても良い」みたいな発言をしているというが「何ということを言うのか」と唖然とした。第二は、市長の「変な発言」にも関連するが、水俣地域の本当の再生にきちんと取り組むべきことである。宮本憲一編の『公害都市・水俣の再生』(筑摩書房)があり、私も一部分担執筆しているが、あれを発展させたら、ということだ。可能であれば、昔取り組んだ地域、住宅がどうなっているか検証しつつ取り組んでみたいものだ。第三に、「公害企業」にいる良心的技術者は、辞めるしかない、と馬奈木さんが言うものだから、私は「そういうことを言っていたら現場での技術の進歩がおぼつかない」と言った。馬奈木さんは、直ちに反応され「被害者の力も強くなっているし、市民の理解も進んできている。それに最近は国民のためになる内部告発も認められ、我々もバックアップできるから、辞めなくてもよい時代かな」と言う風に言われた。そうでなくっちゃ・・。

加藤邦興さんを偲ぶ会(6)畑 明郎君に久しぶりに会う

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
京大工学部の後輩(3、4年)、金属工学出身の畑 明郎君に久しぶりに会って駄弁った。私が助手の時に彼は大学院生だった。彼は、長年、京都市に勤めていたが、神通川のイタイイタイ病に関する仕事でも認められ、加藤邦興さんにひっぱられて大阪市大商学部に赴任し、現在、教授である。600人位の学際的な環境学会の会長もしている。彼のところの大学院生(予備軍含む)とも駄弁った。
そこで、色々私の「自説」も話してコメントを貰った。
・石炭、石油は太古の大森林の「なれの果て」である。(ガソリン税を森林育成に、その他のブログ参照)・・・これについては、石油の元が森林というのは間違い、石炭は確かに太古の森林が生み出したであろうが、石油生成には有機説と無機説があると言う。有機説では、海の動物性プランクトン等の動物性のものが堆積して変化したものと捉えられている。無機説もあるが、いづれにせよ、石炭燃焼による炭酸ガス増加に対しては、固定する樹木を育てること、また石油燃焼による炭酸ガス増加に対しては、森林より更に大きな効果のあり論理的に連関のある海のプランクトンを増やすことも重要である。

加藤邦興さんを偲ぶ会(5)山登りが大好き

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
加藤さんが、サングラスで格好をつけスイスのマッターホルン(モンブランか?)を背景にしている写真があった。国内でも、高校時代からあちこちに登っていたようだ。人工空間でストレスのかかる仕事をしているのだから、時々、大自然の懐に抱かれるのは、誠に自然だ。(名工大の服部千之先生を思い出した。)私は、彼にそういう「趣味」があったとは初めて知った。息子さんが、もう社会人だが、「親父と山登り等自然に触れてきたことを大切にして生きていきたい」といった趣旨を追悼文集『技術と社会ー或る科学者の半生ー』に書いているが、むべなるかな、と思う。偲ぶ会には、山の仲間達も来ていた。
加藤さんは、今ごろ、あちらで「須弥山」(しゅみせん)あたりに登っているのだろうか。

加藤邦興さんを偲ぶ会(4)西淀川公害問題と地球環境

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
加藤邦興さんを偲ぶ会で、「西淀川公害問題と地球環境」のシンポジュウムで発言する加藤さんをビデオで見た。歴史的に見ると、文明が進んだ地域は同時に「公害先進地」で、その地域から文明中心は遷移する。例えばエジプトやメソポタミアは、今は砂漠だが、昔は緑滴る地だった。それは経済活動によってそうなったのだ。同じように公害激甚地は大阪市内から西淀川、尼崎と移っていく・・と発言しているところを見た。誠にその通りであろう。エジプトやメソポタミアを緑に戻してこそ、地球環境は護られる。

加藤邦興さんを偲ぶ会(3)馬奈木昭雄弁護士の偲ぶ言葉

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
宮本憲一先生の次に水俣病訴訟の弁護士・馬奈木昭雄(まなぎ・あきお)さんが偲ぶ言葉を述べた。馬奈木さんが加藤さんに助言を求めたのは、1971年頃であったようだ。私も宮本憲一さんのチームで水俣に最初に調査に行ったのも、その頃である。馬奈木さんは、三つの評価点を述べた。「第一点はチッソアセトアルデヒト製造工程中に有機水銀が生成されることについて、チッソが予見どころかその生成の事実を熟知していたことを明らかにしたことです。第二点として、「チッソの技術、技術のチッソ」といわれたその「技術」こそが、まさに水俣病を発生させたのであり、しかもそれはチッソの偶発的事故などではなく、軍事産業として、国の侵略政策の下で、軍と硬く結びついた技術の必然的結果であった事実を明らかにしたことです。第三点として、水俣病の発生の根本的原因は、国の高度経済成長政策そのものであり、まさに構造的必然的に水俣病を発生させたことを明らかにしたことです。」と。特に核心の第三点を詳しく述べられた。