「沈まぬ太陽」の主人公のモデルは、小倉寛太郎さんだ。JALで「飛ばされて」ナイロビで長年支店長だったが、その間、アフリカの野生動物を良く観察し「ユニーク」な人間の見方を披歴してきた。
そのインタビューにによる「ユニーク」な意見の一つは次のようだ。
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引用:「“隙間産業”の憂うつ
小倉 それで、人類はこういう道を歩んできたんですが、プラスの面だけではありません。マイナス面もあります。
1つの大きなマイナスは配偶者の探索に困ったんですね。犬でも猫でも、臭いで配偶者を探します。繁殖期になると、尿の臭いが変わってくるんですね。猫の盛りの時期は、近所中が臭くなることがあるでしょう。
臭いが出るのは、だいたい足の分かれ目のところです。4つ足で歩いていると、そこに鼻が行くんです。同じ高さですから。
立ち上がっちゃったら、臭いのもとのところより鼻が高いところにきてしまった。どうしたらいいか。盛りが来るたびに4つ足になって臭いを嗅ぐなんて、とてもくたびれてできないですね。
そこで、人類は特別な方法を発見したんです。あまりほかの哺乳類がやらない方法なんですが、それは視覚に訴えることだったんです。目で配偶者を探すということです。
それでどういうことになったかというと、まず体型が変わってきました。男はがっしり。女の人はふっくら、腰がくびれる。シルエットで見てもだいたい男女の見当がつく。
ほかの哺乳類はどうでしょう。ライオンのたてがみ、シカの角、これらは例外として、体それ自身をシルエットで見て、はっきりオスメスの区別がつくというものはほとんどありません。
さらに、人類の女性の乳房は特別の発展をしています。ゾウでもサルでもライオンでもチーターでも、授乳期以外はおっぱいは引っ込むかぺちゃんこで見えません。年がら年中ふくらませているのは人類だけなんです。
それから、ご婦人が成年になると、口紅を塗るのが当たり前になっています。これも視覚に訴える1つの方法なんです。
次のマイナスは何かというと、慢性的早産なんです。10月10日の月満ちてといいますが、10月10日自身が早産なんです。
ヌーの赤ちゃんは生まれて2分経つと立ち上がり、4分経つと歩きはじめて、10分経つと走るんです。ヒヒの赤ちゃんは母親のお腹の下に入って、毛にぶら下がります。生まれたての赤ちゃんの時からできるんです。
それでなかったら、みんな肉食獣に食われてしまうんです。最低の行動ができるようになってから生まれるのが、哺乳類なんです。肉食獣の場合には襲われる危険性が少ないから、比較的その能力は低いのですが、ライオンの赤ちゃんでも生まれた日、もしくは翌日にはもう目が開きます。生まれた日にはハイハイして、母親の乳房のところまではっていきます。
人類の赤ちゃんを見てみます。おぎゃあと生まれて、寝返り1つうてないですよ。お母さんのエプロンにぶらさがれるくらいの能力を持つまでお腹の中にいたら、難産で生まれません。
それに加えて、人類は脳の発達によって、頭が大きく重くなっています。ですから慢性的早産にならざるを得ないわけです。
もう1つのマイナスは腰痛です。ウシやウマの腰痛ってあんまり聞いたことがないですね。人類は、本当は4つ足で歩いているところを立ち上がりました。頸骨の付根だけは位置が何百万年かかってずれてきて、頭蓋骨の下から頭を支えるようになったんですが、腰の骨はまだそこまでいっていないんですね。あと50万年くらい経つと、腰痛がなくなるかもしれませんけれども。
人間扱いしないという“解決”
小倉 そういうマイナスはありますが、人類は“隙間産業”として発展してきたわけです。そして、人類はこの地球上でほかの動物とは比べものにならないほど、優越した地位を占めるようになってきています。 しかし、生物として本能がなくなったかというと、そうではありません。ですから問題が起こるんです。
哺乳類でも鳥類でもいえるんですが、個体間距離を取るという本能があります。1つの種の個体間には、必ずある最低の距離を置こうとする本能が働くのです。例えば、つばめが電線にとまります。すると、1羽1羽の間にちゃんと間隔が空いています。五線譜のように。
熱烈な恋人どうしとか、寒いから集まろうというのは別ですが、それ以外は個体間の距離を取る。人類も例外ではありません。電車が来ます。すいています。定員の半分しかいない。半分に詰めて半分を空ければいいと思うけれども、ちゃんとみなさん、点々と座るでしょう。
通勤時間にプラットホームに並びます。ここがドアの位置ですよという表示があるから3列に並ぶ。「はい前へ詰めて詰めて」と駅員が言うけれども、絶対と言っていいほどみなさん、30センチ以内には詰めませんよ。個体間距離を取ろうという本能が働いているから。うっかり近づきすぎると「痴漢だ」なんて言われるかもしれない。
それだけ距離を置きたいんです。また、置いてもらいたいんです。ところが、電車が来て中に入ったとします。個体間距離はどうなりますか。そんなものはないですよね。前に他人の髪の毛が顔に来る。お尻に他人のカバンがぶつかる。押し合いへし合いになります。
そうすると、われわれの本能と神経はずたずたになるんですよ。気が狂うほどの神経の病み方なんですね。解決するにはどうしたらいいんでしょう。電車を増やせといっても、物理的にそうは増やせない。そこで人類は、特にわれわれ日本人は1つの方法を考えたんですよ。
何かというと、「ここにぶつかっているのは人類ではない。人類以外の物体だ」と思うことにしたんです。あれを人類だと思ったらたいへんですよ。熱烈な恋人だってこれ以上くっつかないというところまでくっつけられるわけです。
余談ですが、西田利貞京都大学霊長類研究所教授は、「痴漢が出るのは当たり前だ」と言うんです。「人類の歴史を見ると、女が男にそんなに近づくというのはすでに許容していることだ」と。生物学的にいうとそうなんですね。西田さんの説ですよ。ですが、私も確かにそういうこともあると思います。
本能を殺すには、相手が人間じゃないと思わないとやっていけないわけです。この点は、満員電車に限らないんです。
20年くらい前のナイロビ。エレベーターに乗っていてドアが閉まろうとします。向こうから小走りに来る人がいる。ドアを開けてあげてその人が入ってくる。「どうもありがとうございました」。「ところで何階ですか」。「7階です」。「今日は久しぶりに会いましたね」。なんていうコミュニケーションがあるんですね。
ところが日本では、私の観察したところでは、だいたい9割方、向こうから走って来るのは「風の一種」。入る身になると、エレベーターにすでに乗っている人たちは「壁の部分」。お互いに人間扱いしてないですね。よほど親切な人が話しかけたりすると、「なによ、このおじさん気持ち悪い」ということにもなっちゃうんですね。
神経のゆがみ
小倉 エレベーターだとか満員電車の中で相手を人間扱いしないということはまだいいんですけれども、もっと恐いことにもなってきます。
「荒木又右衛門 鍵屋の辻36人斬り」という講談があります。私が尊敬する動物作家の戸川幸夫先生が「あれはウソだ」と。なぜかというと、人間を2、3人斬ったら刀は血と油でベトベト、ズルズルになって、斬れなくなる。また、体力的にも3人斬ったらクタクタだ、と。その間に斬られないようによけなきゃならない。それから、3人斬って相手の断末魔の苦悶の表情を見たら、それだけで精神的にくたびれてしまう。
人を殺すというのは、ふつうの人間にとっては、苦しみの表情を見るだけで大きな負担なんだ、と。私も同感なんです。
ところが、人類は、知恵が発達して、苦悶の表情を見ないで、こっちがくたびれないで殺せる方法を発明したんですね。小銃でも、200メートル先の苦しみの表情はあまりはっきり見えないですね。10キロから20キロ先まで飛ぶ大砲なら、まったく見えない。
まして、1万メートルの高空からボタン一つで10万人を殺しても見えないですよ。おそらく、爆撃手が十万人の苦悶の表情をずらっと並べられてよく見よと言われて、実際に見たら気が狂うと思います。
人類は哺乳類の中で最も数が多いんです。ネズミは人口の数倍いるといいますが、あれはネズミの数十種類を足しての話で、一種だけでは人類が一番多いんです。この点で、過密で人類の神経がゆがんできている。」
インタビュ―全体はこちら:
http://www.kikanshi.co.jp/interview/ogura/p-ogura.htm
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で、個体間距離を、何時でも適当に保つためには「過密居住」を解消しなければならない。東京、大阪、横浜、名古屋などは「論外」だ。
そうなれば、本格的に国土政策上、強力に「分散政策」を取らねばなるまい。今までも「口先」では「国土の均衡ある発展」みたいなことは言われてきた。しかし、それが本当に本格的にやられたことはない。
そのことは、洪水、津波、土砂崩れ等の危険性のある所からの安全な所への移住政策でもある。上階から地上の「顔」が見えない「超高層住宅」も否定され、中層、低層の住宅の組み合わせで国土構成することになるだろう。
そうすれば、個体間が近すぎて「狂う」こともないし、遠すぎて「無関心」になることもない。近すぎても遠すぎても同胞の人間を「単なるもの」と認識せざるをえなくなるのだ。
是非、その方向で過密を解消し、過疎も解消していきたいものだ。