西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

深井純一さんの思い出

2012-01-31 | 京都の思い出(助手時代)
深井純一さん(立命館大学名誉教授)が1月27日に肺炎で亡くなられた、享年70歳、私と同年生まれであった。深井さんとは、宮本憲一先生(大阪市大名誉教授、元滋賀大学長、経済学・財政学)をヘッドとする関西水俣病問題研究会でご一緒し、水俣に何度か現地調査に行った仲である。1971年頃から最初は自費で、そのうち科研費(総合研究)がでて数年間通ったのではないか。まあ調査地域として水俣以外、沖縄、堺・泉北コンビナート地域で、開発により引き起こされる問題解明と住民主体の開発のあり方がテーマだった。

水俣調査の成果は宮本憲一編の『公害都市の再生・水俣』(筑摩書房)にまとまっている。私は、建築・都市関係で京大の三村浩史助教授(当時、現・京大名誉教授)のもとに院生何人かと参加した。当時、私は京大助手だった。水俣病患者の住宅、「地域居住問題」を調査、追求して、その本に論考を書いた。深井さん(当時、立命館大学助教授)は、農業経済学専攻、他に財政学、漁業経済学の方々も参加された。

調査の合間に色々なことを駄弁ったことを覚えている。我々は東大、京大と別れて入学したが、同じ1960年入学で「安保闘争」に参加したことは共通していた。深井さんは、理Ⅱの学生で工学部の建築学科に進学も可能だったが、安保闘争に参加したむしろ旗の農民姿に感動して、国の基は農業だ、と感じて、農学部農業経済学科に進学したと聞いた。岩波新書で『土地に刻まれた歴史』を書かれ、また記憶のみにたよって書かれた『こども達の大正時代 田舎町の生活誌』などの著書がある古島敏雄教授に師事された。

その後、自治体問題研究所などを通じて宮本憲一先生と知り合ったのではないか。

水俣調査の数年間の後、一定の論考にまとめた他、私は関心は持続し、ニュースなどには(今でも)注目し、時々夏休みなどの集団調査のイベントなどにも参加したが、深井さんのように1/4世紀にわたり水俣病問題の行政責任追及に熱意を燃やしてきたのは我々のチームでは深井さんただ一人だったと言えよう。

水俣問題追及以外でも学生のゼミ指導で熱血漢(熱血教授)ぶりを発揮し、その記録の本も確かあったはずだ。立命館の産業社会学部のゼミは30人ほど、全部の考え方など到底覚えられないので、深井ゼミ新聞を順に編集させ、自己紹介など書いてもらい顔と考え方を覚えている、とも伺った。まあ、気分の「上がり下がり」にもかなり激しいところがあった。一つのことに集中する時期があり、果物酒を熱心に作っていた時期には、よくもらったりした。

まあ「正論堂々主張派」でもあったので、あちこちでぶつかっていたかもしれない。

『資本論』でマルクスが書いている「そこがロドスだ、そこで飛べ」(今様に言うと「そこがパラダイム転換点だ、思い切ってジャンプしろ!」)という言葉が好きだったのではないか・・。今頃、深井純一さんは、あちらでマルクスや古島先生に議論をふきかけているかもしれない。

ご冥福を静かに祈りたい。

写真は、深井さんの著書表紙

西山夘三生誕百周年記念イベントに行く(1)

2011-09-04 | 京都の思い出(助手時代)
今年は、「科学的住宅計画」を戦前にほぼ確立した西山夘三先生(京大教授歴任、1994年没)の生誕百周年の年で(ほぼ関係がないが、法然800回忌、親鸞750回忌の年でもある)、昨日から始ったイベントに大阪・梅田北に行った。

近鉄で鶴橋まで行き、JRに乗りついで梅田(大阪駅)まで行った。大阪駅は、橋上駅として生れ変わったようだが、時間的にゆっくり見る間がなく、うろうろした後、北口に出た。ここも2000年頃とすっかり変わってビックリ、交通整理のポリさんに聞いて、梅田スカイビルタワーに行った。真っ直ぐ北に歩いて、皆の流れについて西に行き地下道を抜ければ良いとのことだった。

途中、まあJR西日本の持つ「ヤード」の超高層ビルによる「開発」途中の状態を見ながら進んだ。人間的スケールを遥かに超えて空中に大きな鉄骨が縦横に走っている。こういう側を歩くとは・・・、こういう空間に「疎外」されていると言うべきだ。

南海、東南海そして東海大地震が来たら大変だな、と思わざるをえなかった。

地下道を抜けて地上に上がると梅田スカイビルタワーだった。「ウエスト」に行きエレベーターで22階、ここで13時半から「記念シンポジウム」がある。

その前に最上階に行った。ここでは9月19日まで『昭和の住まい展』がある。西山夘三先生が撮られた写真、描かれたスケッチなどによる戦前、戦後の「昭和の住まい」特に庶民の住まいがずらりと展示されている。2000年にも行われたが、再度精選されての展示である。是非みてほしい。

戦前、戦後を苦労して過ごされた方々には思い当たる風景もあるであろう。建築学科、住居学科等の学生に特に見て欲しいが、夏休み、先生方からメイル等で知らせて欲しい。

最上階の35階から22階のシンポジウム会場に「戻る」のに苦労した。長い長いエスカレーターに乗ったが、こういう時に大地震が起きれば、「落ちる」恐れもある、と話しあった。恐い恐い!

シンポジウムについては、実り多く別に書く。

本イベントの主催は、NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫であるが、協賛は、積水ハウスそして後援が、日本建築学会近畿支部、大阪市住まいのミュージアム、都市住宅学会関西支部、日本住宅会議関西会議、新建築家技術者集団近畿ブロックである。

関係者の皆さん、期間中、是非おいで下さい。


「原子力発電所」と地域開発(続き)

2011-08-25 | 京都の思い出(助手時代)
昨日の続きである。今日から読まれる人は昨日の分から読んで欲しい。また、昨日読まれた人で「文字面がおかしいな」と思われた人もいたかと思いますが誤字を訂正しました。


<現状で「原発」が地域に与えるマイナス>
 以上によって、「地域開発に役立つ」という内容の一応の批判・検討を終り、その他現在のようなやり方ではどのようなマイナスを地域に与えるかについてふれてみよう。
 まず、「土地の買収」と「漁業補償」である。これらについては極めて早い時期に電力会社が「手」を打ってくる。「土地の買収」にしても目的を明らかにせぬまま行われることもある。また土地を手放したがらない住民には土地収用法の適用をちらつかせたり、地域ボスに金がばらまかれることもしばしば耳にする。「漁業補償」も漁協の一部の幹部と話をつけるというやり方が一般的である。これは地域民主主義、住民自治の観点から明らかにマイナスである。その上、地方自治体の幹部もそれに加わるとき、自治体行政が歪曲されていく。福井県大飯町の前町長は町民に不利な「仮協定書」を秘密裏に電力会社と結んでいたことからリコール運動が起こって辞任せざるをえなくなったのである。
 「土地買収」「漁業補償」はまた結局、農業や漁業の継続にマイナスの要因である。
 次に、「原発」はかなり多量の洗浄用淡水をも要求し、そのことが、農業用水や生活用水と競合する。若狭湾岸大飯町の例では、117.5万kw2基で4千立方㍍/日の淡水が必要といわれ(「安全専門審査会答申」後の資料による)、それは、町人口約6千人の生活用水千8百立方㍍/日に比較しても莫大な量だということがわかる。これを、町を流れる二級河川佐分利川の表流水、伏流水から取水するとすれば、生活上、農業上きわめて問題である。というのは、過去にも5~6年に一度の割で渇水が起こり農作物に被害があることが知られており、また最近の「クーラー」の普及がただちに地下水位の低下に連なったという事実もあるからである。(「同上書」p.52~54)
 その他、「原発」への核燃料や、そこからの廃棄物の貯蔵や運搬の問題、高圧線の電波障害の問題、揚水発電所への送電問題などがある。
 このような問題は、現状のような臨海工業地帯の電力危機論を背景とした強引な原発の過疎地立地主義では解決できない。それが又事故その他安全性の低下にも連なっているのである。地域開発の面から考えても、原子力開発の三原則、自主・民主・公開が守られる必要があるのではなかろうか。(下線は2011年8月25日)

<住民本位の地域開発と「原発」>
 「原発」は現在、日本列島の中の「海岸過疎地」に建設されようとしている。そこは、主として農業、漁業地域であるといえよう。又、その多くは景勝地であり、国立、国定公園の一角、近傍を占めている例も多い。従って、原発によって大々的に田畑を売らされ、漁業権を放棄させられることは、日本の農業、沿岸漁業をくずす重要な要因となり、また国民的レクリエーション地をせばめることに連なっている。
 ところで、大企業本位の地域開発を代弁している『日本列島改造論』ではギマン的な「福祉型発電所」の建設などが主張されている。「上」からのおこぼれとしての「福祉」は地域住民の一部を迷わせるが根本的に住民生活の向上には連ならない。
 現在、町議会で「原発反対」を決議している北海道岩内町では、良好な港を持ち、養殖漁業にも力を入れだした漁業の盛んなところで漁業者は漁業で基本的に生計を成り立たせており、「原発反対」の主力の一つが岩内漁協なのである。又、以前「新宮津火力発電所」を拒否した若狭湾岸京都府民の先頭に立ったのは伊根漁協であった。ここでも、「育てる漁業」を長年にわたって追求し、漁業はほぼ「飯の食える」生業となっている。
 「原発」の「過疎地」への急速な進出という傾向は、残念ながら農漁業の一角を現実に破壊したが、他方その地域の住民本位の発展策を考えさせられる機会となった。このような地域での住民本位の開発といえば、恐らく農業、漁業を中心にすえ、農漁業の安定収入の増加をはかるということにならざるをえない。その上に、地域の条件にマッチした「地場産業」を振興させるということとなろう。それには恐らく地域の環境を生かした観光開発も含まれよう。それは、地域外大資本による環境破壊的開発ではなく、環境保全、資源保護に徹したものであることは言うまでもない。
 このように地域がしっかりした生活基盤を住民本位につくっていれば、かりに「原発」が進出したいと言って来ても(より抵抗の少ない「過疎」な代替地へ流れるかもしれないが)、住民や自治体は安全性や住民福祉などの点を徹底的に追求し、自主・民主・公開の三原則を貫徹しうるであろう。そして、農漁業を守り育てることこそ、日本国土の破かいを防ぎ、過疎化を防ぎ、国内資源の荒廃を防ぐ道に通ずると考える。
 (参考文献:『原子力発電と住民』日本科学者会議京都支部編、その他)
(追)本稿は、西村が「原発研」の研究活動にもとづいて起稿し、木村春彦氏の補筆の上、西村がまとめたものである。


これは私が京大工学部の助手をしていた31、32歳頃の頃の「論」である。木村春彦氏とは、当時、京都教育大教授で「国土研」理事長だった人、故人。若狭湾に一緒に行ったかな。京大理学部助教授だった佐藤文隆さん(現・名誉教授)とも一緒に行ったなあ。

この3月に起こった東電福島第一原発事故以来、原発の安全性については多くのことが判明しつつあるが、「原発設置」は地域住民のための(同時に国民全体のための)地域開発の観点からも極めて問題なものだ、ということを35年以上前に考えていたという記念・記録として明らかにしておきたい。なお論の進め方に「弱い」点があるのも気になる。

機会があれば、若狭湾岸の原発や自治体、住民に再度接して色々確かめてみたい。北海道の岩内にも行ってみたいな。衛生工学で助手をしていた青山君と行ったことあるなあ、科学者会議のシンポジュウムが岩内であった。帰りに積丹半島(しゃこたんはんとう)をぐるりと回り、雷電温泉で湯に浸かって日本海に沈む夕日を見たね。メロンも美味しかったね。 

「原子力発電所」と地域開発(1973年2月『公害と日本の科学者』より)

2011-08-24 | 京都の思い出(助手時代)
今から38年前、32歳だったころ、私は上記のような「論文」を書いた。

長年、書いたことは覚えていたが、内容は明確には覚えていなかった。今日、資料整理で出てきたので、私が「若い」頃、「原発」を地域開発の立場からどうみていたか、記録として再録しておきたい。「原発」認識の初期のころのものだが、基本的には現在の認識と大きく違ってはいない。

<はじめに>
 現在、全国の特に過疎地の海岸部で「原子力発電所」が建設されようとしているが、その安全性や温排水などの問題を中心にしてその地域住民は疑問を持ち「反対運動」が展開されている。そのような場合、設置をしようとする側から出される主張の一つとして「原子力発電所は地域開発に役立つ」ということがある。はたして、主張は本当かどうかを理論的に、また実際に則して検討し、それに対するに地域住民はどのように考えたらよいかについても検討してみるのが本稿の課題である。

<原発が「地域開発に役立つ」という主張の内容とその批判>
 では「原発」が「地域開発に役立つ」という主張の内容はどういうものであろうか。

いくつかに分けてみると、まず第一は、「原発」そのものの存在が地域経済にプラスになるという主張である。具体的には、従業員の地元採用により雇用を増すとか、「原発」の温排水を利用して養殖漁業をしたり、また地域暖房に役立てるなどということである。しかし、雇用増といっても高度な技術を必要とする「原発」の運転・管理に、一般に「原発」が建設されようとする農村、漁村地帯の労働力は対応しえず、せいぜい守衛とか掃除夫とかの雑役に若干の人が雇用されるにすぎないだろう。(注1)
 また温排水利用の養殖漁業であるが、放射能が温排水に皆無という保障はなく、もし極微量でもあるとすれば、食物連鎖で濃縮されて人の口に達する恐れが強い。さらに、地域暖房といっても、そのような過疎地での配管には莫大な費用がかかり、都市部の例(「泉北ニュータウン」)でもそれを行っているのは都心部のみでまだ一般住宅地にはほとんど及んでいないのであり、その実現は疑わしいと言える。
 注1)「原子力発電所の関電1号では、約800人の正社員は地元採用ゼロ、増設のため臨時に40人雇っているだけ。」(『朝日』72.5.12)

 「原発」が「地域開発に役立つ」という第二は、、関連する「公共投資」が増えて過疎対策になるという主張である。その良い例が道路建設である。福井県大飯町の例では、「原発」予定地の大島半島から町の中心本郷へ橋を架けるという地域住民の年来の念願が「原発道路」の建設という形で実現しようとしている。この点について、日本科学者会議京都支部の報告書は次のように述べている。「6年前に大島半島では、道路建設期成同盟がつくられ、県への陳情を繰返してきた。それが、1971年3月原発抱き合わせに幅員5.5m延長13kmの県道(本郷ー赤礁崎線)計画が決定された。工事費25億円のうち、県の負担は3億で、県道とはいっても、関電の建て替え代行建設である。・・・関電の代行によって建設されるという事態は、住民を当惑させ、安全性と利便性を天秤にかける危険な方式である、といわねばならない。この点で、県は、公共負担で、道路事業を実施することを住民に保障しなければならない。」(『原子力発電と住民』p.73)
また、「原発」そのものや道路・港湾等「付帯的公共工事」の増加に伴っての建設労働の増加が地域住民の収入にプラスになるとする意見もある。たしかに建設工事が雇用を増加させるが、そこでは高度な技術や大きな資本を必要とするという点から、大企業やその系列下の建設会社が建設工事の中心となり、従って建設工事の一部にしか地元資本が参加しえず、また地元住民も一部の臨時的不安定雇用を期待できるにすぎない。地域開発は「町民が期待する『生活道路』や『住宅』や『体育館』などの『町づくり』に、地元をよく知っているということや住民との結びつきもあるということから積極的役割も果たしうるという、町民のために町民とともに発展していく別の展望があることを忘れてはならない。」(『同上書』p.68)

 「原発」が「地域開発に役立つ」という主張の第三は「原発」から税金が地方自治体に入りそれが地域住民の福祉に役立つといっていることである。ところで実態はどうであろうか。「美浜町では、関電美浜1号の昨年度固定資産税は、1億2千百余万円だった。しかし、その75%相当分については、国から配分される地方交付税が減額され、”実益”は約3千万円.昨年春に東京電力の福島1号が動き出した福島県大熊町でも、今年度から固定資産税が入るが、同じように”実益”は5千万円ぐらいになりそう。・・・電気事業は、公益性重視ということで優遇され、地方税法により操業後5年間は他の事業の税率の3分の1、次の5年が3分の2.それに、地方交付税は市町村の財政需要額をはじき出し、収入の足りない分を補う目的で配分されるので、収入がふえれば交付税はへらされる。」(『朝日』72.7.22) 「原発」を積極的に誘致した市町村ですら、国に対して”核燃料消費税”と”原発所在市町村特別交付税”の新設を要求しているほどである。(『日経』72.7.22) 一方、「発電所の出来る地区の学校や道路の改修。また町民全体に建設に賛成してもらわねばならず、他の地区も同じように整備する必要がある。このままでは起債がかさむ一方で、財政はピンチだ」(『朝日』72.5.12)ということになるのである。

(続く、<現状で「原発」が地域に与えるマイナス>、<住民本位の地域開発と「原発」>)

まあ、実例として若狭湾の大飯、美浜原発を主に例にだしているが、東電福島第一も「チラッ」と出てきている。




中国の文化大革命とは・・・。歴史の反芻・・・。

2010-09-23 | 京都の思い出(助手時代)
1966年から1976年まで10年間にわたって中国で展開されたのが、毛沢東が発動した「文化大革命」であり、今では中国でも「失われた10年」と言われている。

その時期は、私は大学院(修士課程)を修了して豊田に就職し、4年後の1970年に京都に戻り、更に4年後の1974年に奈良に転勤となった。20歳代から30歳代中ごろまでの時期であった。

当時、当初、この動きを「肯定的に」捉えていた。そのうち「文化」を担う知識人が批判され、次に子どものような紅衛兵に「実権派」とレッテルを貼られた「幹部」が引きまわされて無理に「自己批判」されるのをニュースで知って、変だなと思いはじめた記憶がある。

1990年代に中国の大学を訪れた時、30歳代、40歳代の大学教師が極めて少なく、いても外国帰りで、正に「失われた10年」の後遺症だ、と思った。(昔、紛争で東大が1年入試をしなかったために研究、後継者育てが大きく遅れた、と聞いたことがある・・・。)

ここに至るまでの中国の近代史を19世紀から再検討する必要を感じている。当然、日本との絡みも再検討となるだろう。そして現代、中国は、本当に「社会主義国」であるのか、と問われるだろう。

三村浩史先生喜寿祝いパーティ

2010-05-09 | 京都の思い出(助手時代)
昨日、京大本部構内、京大会館で、三村浩史先生(京大名誉教授)の喜寿(数えで77歳)お祝いパーティ行事があり、参加した。1970年から1972年の2年間、三村研究室(当時、三村先生は助教授)の助手をしていたためである。(私の学生、院生時代は、西山研究室所属、三村先生は助手)
(三村さんは「花の(昭和)32年卆、34年修了組」と言われるクラスの一人で、同期生に、住田昌二さん(大阪市大名誉教授)、亡くなられた服部千之さん(名工大)、湯川利和さん(奈良女子大)、黒川紀章さん(建築家)などがおられる。)

夕方から京大会館でのパーティの前に色々大幅に変わった本部構内を散策し、向かいの元・教養部(吉田分校)へも一寸寄った。時計台中の「京大サロン」で待ち合わせたが、15時からホールで例の「IPS細胞研究棟」完成披露があるらしく、我々は「追い出された」。

時計台前の楠の木(楠木学問=大器晩成型学問を象徴)を背景に記念撮影後、構内散策、時計台裏は昔、法経一番教室(学生大会や「団交」のあったところ)であったが、なくなって、時計台裏はガラスの近代的建築になってしまった。

工学部本部(事務室もある)横を通り、電気工学棟、昔の赤レンガ建物の入り口部分のみ保存してコンクリート建築に貼り付けている。土木工学の赤レンガ建築は一棟そっくり残っている。我が建築棟は電気や土木の「明治建築」ではなく初代教授の武田五一設計の「大正建築」だ。今は、ほぼ全部「桂キャンパス」に移って「空家」になっているようだ。勿体ないと思う。

工業化学棟、図書館横を通って正門から出て向かいの昔の教養部構内へ、正面の建物の屋根に旧制・三高以来の「自由の鐘」が見えているが、我々が2回生の頃(1961年頃)には、あったかどうか覚えていない。

ぶらぶら京大会館まで歩いて18時からパーティ、三村先生と晴子夫人が入場・着席、三村研究室卒業・修了の35歳から70歳近くの人まで100人を越える参加、若い方では女性が増え、留学した外国人も多くなる。時代の流れだろう。私は、学生・院生として6年、助手で4年(三村研のあと2年は西山研)計10年、京大にいたが、昔になるため50歳以下は殆ど面識がない。特に大学・高専等以外に勤めている人の顔は殆ど知らない。でも同窓なので色々名刺を交換、中央・地方のお役人、ゼネコン管理職、設計事務所・コンサル経営など色々活躍しているな、と思った。

但し、いきおい歓談は高齢者に向いてしまう。三村先生は、お元気であるが、何か病院通いもされているようだ。卒業・修了生の山川元志君が、「開発」した「遠赤外線暖房機」には重宝している、と三村先生が言われていた。

奥さんは、学生時代以来、「合唱団交流」で、「京大男性合唱団」OBの的場輝佳さん(私と同僚で良く知っている奈良女子大名誉教授、食品学、調理学)と知り合いで一緒にロシアにも(合唱旅行に)行かれたとのこと、初めて聞いた。

同年代前後の人達とは、少し体調の「自己管理」、「地域人間」への転換などを話題とした。古い駄洒落などを少し言ってみたら、横で聞いていた「若い人たち」に一寸「受けた」のは面白かった。未だ「賞味期限内」だな、と思ったが・・・。

まあ、同ゼミ出身者は、主宰教授を「頭」とする一種の「村落共同体」みたいなものかな、という感慨が浮かんだ。20時半頃に解散、一寸「二次会」に行く元気がなく、そのまま、帰った。帰りの電車で、貰った小冊子を見ると、三村夫妻は、一緒に旅行したり、イベントに参加したときには、一緒に俳句を詠んでいることが分かった。共に吟行しておられる。羨ましいな、と思った。

川喜多二郎さん亡くなる89歳

2009-07-10 | 京都の思い出(助手時代)
今朝の朝刊によると、「KJ法」で有名な川喜多二郎さんが89歳、敗血症でなくなった。川喜多さんの名前を強く意識したのは、京大の院生時代か助手時代である。

先輩の上田 篤さんが建設省から助教授で戻って来られて、色々と研究テーマの相談・議論をした時に、上田さんが「研究の方法として、帰納法、演繹法の他に発想法というのもあるよ。川喜多二郎さんの『パーティ学』とか『発想法』を読んだらどうですか」と言われて、その二冊を買って読んだ記憶がある。川喜多さんは当時、東工大教授だった。

現在、書棚を見ると、川喜多さんの著書では中公新書の『発想法』と『野外科学の方法』しか見当たらない。『パーティ学』は何処かに埋れている。

川喜多さんは、旧制三高、京大時代、山岳部に入り、今西錦司、梅棹忠夫さんらと色々探検、その経験などが後世の学問的活動に活きていた。

上田 篤さんも今西錦司さんと関係があり、関心が幅広かったし、今も様々な方面に発言している。

久しぶりに様々思い出しつつ『発想法』を手にしてみた。

『水俣レクイエム』のことー一つの原点ー

2009-05-30 | 京都の思い出(助手時代)
昨日、京大助手時代(1970年~1974年)に一緒に水俣に調査研究と住宅設計のために行った当時大学院生だった山川元志さん(現在、「家基都」主宰http://www.mukugi.com/kinomi54.htm)が、当時の話を思い出させる話をされたので、その後、当時一緒に科研費等で共同調査研究をしていた宮本憲一先生(当時、大阪市大教授、その後、滋賀大学長等歴任)の編集になる『水俣レクイエム』(岩波書店刊)について、少し記したい。

1994年の年末に九州大学名誉教授の青木正夫先生(故人)から手紙が来て「『西日本新聞』にあなたのことが載っていたのでコピー同封する。」とのことだった。

1994年12月7日号の一面下欄(春秋)(『朝日』の天声人語に似ている)に確かに私のことが書いてあった。

「若くして亡くなった水俣病患者の佐々木つた子さんの歌集『水俣レクイエム』が出た。住環境学の西村一朗・奈良女子大教授が患者と住まいと歌との関係について一文を寄せている。住宅のあり方を考えさせるものがある

▼西村教授は佐々木さんのために住宅を設計した。水俣市内には一時、補償金で豪華な御殿のような住宅が次々と建った。せめて家でも立派に、という気持ちは分かるが、豪華さが住みよさを生むわけではない

▼そう考えた西村教授は佐々木さんの闘病生活を第一に、窓やバルコニーを通して外界との交流が実感できるような家にした。住まいは体の不自由な患者にとって、いわば小宇宙だからだ。そこで森羅万象を感じ取らねばならない

▼「朝床に目覚めて見おり窓越しに重盤岩に立てる日の丸」「しずく垂る梅の木下のしめり地を猫はしずかにふみてとおりぬ」「窓あくれば真向かいの山の美しさ夕陽あびたるはぜが眼にしむ」「朝あけに新聞配れる少年は鼻唄やめぬ顔洗う吾(あ)を見て」

▼患者の感性は移りゆく自然や環境に対して普通の人よりも敏感だ。はたして今の病院や住宅はそういうことへの配慮が十分だろうか。人は自分を生みだした環境に過不足なく囲まれて安らぎを得る

▼現実には、とくに過密都市では「ウサギ小屋」といわれるほど住環境は劣悪だ。水俣病患者に限らず「住まいは家族生活という”ドラマ”が演じられる”基本舞台”でなければならない」と西村教授は言う。」

佐々木さんの住宅については、私と山川さんとで基本計画を立て、実施設計をしたのは山川さんだ。山川さんは、その後たくさんの住宅設計や改修に携わっているが恐らく、この設計が最初ではないかと思う。

私が、その後、住宅計画に当たって「地域の人々とのつながり」「環境とのつながり」そして自分史を含め「歴史とのつながり」をきちんと配慮することが大切、という考え方を提起確立したが、それへの第一歩が水俣病患者の住宅問題への取り組みだった。

坂東昌子さん(日本物理学会会長ほか)

2008-12-10 | 京都の思い出(助手時代)
月曜日からの『日経(夕刊)』で「ひとスクランブル 人間発見」欄に愛知大学名誉教授で、日本物理学会会長をされた坂東昌子さん(70)のインタビューが載っている。

坂東さんが京大理学部で「湯川秀樹研究室」の助手をされていた頃、私も工学部・西山卯三研究室の助手をしていた。坂東昌子さんよりご主人の坂東弘治さん(やはり理学部助手)を良く知っていた。恐らく職員組合活動、日本科学者会議活動を通じてである。色々教わり、色々叱られたりした。坂東弘治さんは、その後、福井大学教授から東大教授になられたが、50歳代で亡くなられた。残念だった。

当時、京大では組合活動や科学者活動では理学部が牽引車だったと思う。ノーベル物理学賞の益川俊英さんとも組合活動で面識があったし、亡くなられた永田 忍先生(当時助教授、生前、宮崎大学名誉教授)や佐藤文隆さん(京大名誉教授)らも知っていた。

坂東さんの長女は、京大建築の後輩で、そういう意味でも「つながり」を感じている。坂東さんは長女が生まれた時、退職する道ではなく働き続ける道を選ばれた。そこで子育てのため自宅に保育所を開設し、それがその後、京大の正式の保育所(「朱い実保育園」)となった。永田 忍先生の奥さんが園長先生だった。

その保育所に、私たちの娘が1歳から3歳まで通った。当時、共働きだったからである。お陰で、彼女は集団でもまれた結果、小学校にもスムーズに通った。

坂東昌子さん、ありがとう。彼女は、NPOを立ち上げ若手研究者を支援すると言う。陰ながら応援していきたい。

有朋自遠方来、不亦楽乎

2008-10-17 | 京都の思い出(助手時代)
「有朋(とも)、遠きより方(なら)び来たる、亦(また)楽しからずや」(『論語』貝塚茂樹訳注による)である。今日、長崎から大学院後輩(還暦過ぎ)で、現在、福祉文化学専攻の日比野正巳君(長崎純心大学教授)が京都の平安女学院で明日から行われる「福祉文化学会」にやってきたのだ。私と所属学会が違っているので、10年以上も会っていないのではないか。

私が京大で助手をし始めた1970年ころ、彼は名大建築学科を卒業し、京大大学院にやってきたのだ。京大に修士課程2年間いて、博士課程はまた名大に戻るコースを歩んだ。大学院では、一貫して交通計画を専攻し、名古屋の高速道路を批判的に評価している。

ところが、長崎総合科学大学に勤めてから原爆症の渡辺千恵子さん宅の改造に携わる頃からか、福祉空間計画にシフト、ついに学位は「工学博士」ではなく福祉の一番ケ瀬康子先生のところで取得、「博士(社会福祉学)」になった。今日、彼の名刺を貰ったが、絵も字もあるユニークなもので「デザインのできる博士(社会福祉学)日本初」と書いてあるので「そうなのか」と思った。

とにかく筆が早く本も多い。先輩の故・湯川利和先生(奈良女子大学)の『湯川利和 交通・都市著作集』も編集していただいた。

新しい言葉をつくるのは私と一寸似ている。
認知症の人に対して「やることが、トンチンカン」と言う人に対して「それは、とんちンカン」(とんち=頓知)なのではないか、と切り替えしている。
彼のブログも、その名を冠している:http://www.caresapo.jp/kaigo/blog/hibino/ 一読あれ。

今日、彼と話していて、「けいはんな地域」でやっている「地域SNS」「市民雑学大学」「グランマ・グランパの絵本・紙芝居プロジェクト」「市民サロン交流」などなどのプロジェクト、コンセプトに共鳴してもらったことがうれしい。彼も「地域SNS」招待しようかな。



三つの「つながり」の一つの原点

2008-10-14 | 京都の思い出(助手時代)
昨日のブログで、三つの「つながり」について書いた。復習:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/2a1e0c0ac63131023cdb6731a12486bd

で、その考えの一つの原点を書いておきたい。水俣病だった佐々木つた子さんの言葉である。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/a3ac8d9f2d559e36e1143f3521f5fdd3

これらは後で考えると、三つの「つながり」の一つ一つを反映している、と思う。
・道を行く昔の友達や近所のおばさんと声を交わしたい。→人とのつながり。
・美しい不知火海を見たい。→環境とのつながり。
・昔遊び父親も働いていた赤碕港を見たい。→歴史とのつながり。

1970年4月から1974年3月までの助手時代

2008-10-09 | 京都の思い出(助手時代)
1970年から1974年の4年間、私は京大工学部・建築学科で助手をしていた。今で言う「助教」である。この時代の「思い出」は、カテゴリー「京都の思い出(助手時代)」に収めている。

今日、一寸振り返ってみたくなったのは、今度、ノーベル物理学賞を受賞することになった小林誠、益川敏英さんも、ほぼ同時期に京大理学部助手をしており、いわゆる「小林・益川理論」が、正に1972年、1973年頃に出来上がり公表されたからである。その時期、では自分は同じ場の空気を吸いながら何をしていたのだろうか、と思ったのである。

小林さんは知らなかったが、益川さんは京大職員組合活動を通じて当時、何度か会って話をしたこともあると思う。

その4年間の私の「仕事」に関しては、ブログに概略書いたことがある。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/04ce76616ba2c5a11dc65e35f05e3bb0

大体、三つになるのかな。一つは、水俣病患者の住生活、住宅調査と一定のまとめ。(雑誌『住宅』への投稿、宮本憲一編著『公害都市・水俣の再生』への分担執筆などで発表)二番目に、パトリック・ゲデスの『進化する都市』の翻訳(未完、後に完成、鹿島出版から出版、編訳)。三番目に、京都府の漁村・伊根町の調査(簡単な報告書、建築学会大会報告で発表、後に「地域環境管理」の問題としてまとめる)、である。これらについては、一生懸命、当時として本質的なことを追求、論じた積りだが、我々の分野での位置づけや、現在での意義について、再調査をしながらキッチリ書いてみたいと思っているが・・・。

西山記念文庫関連の仕事、作業の希望・・・

2008-06-22 | 京都の思い出(助手時代)
私は、西山夘三先生の最後の助手である。(1975年~1979年)将来、西山夘三記念文庫関連の仕事をするとしたら、とりあえず三つ位あるかな、と思う。メモとして書いておきたい。

一つは、膨大な西山夘三日記を読み込んで、公刊著書、論文と日記記事との関連を追及、分析する仕事である。西山先生の日記の文字は独特なので読みに慣れなくてはならないし、出来れば慣れた人の助けを借りねばなるまい。

第二は、西山先生ご自身の著書、論文への「書き込み」に関する研究である。西山先生は、著書を公刊されると一冊はご自分の「書き込み」用にされていた。色々本を書いた後で、それらを読んで気づいたことを書き込んでおられる。ご自分の論を絶えず反芻し、より良くしようとする努力と言える。それらをトレースし研究すれば、その後の「論」の発展につながるのでは、と思う。

三つ目は、やや細かいことだが、西山先生は、自分の所に来た封書、葉書は皆、保存しておられた。そこで、そこから転居通知を抜き出して、新居を短い言葉で表現するとしたら、どのようにするか、の研究をしたら面白いと思う。

皆さん、協力して貰えませんか。
これらについて、昨夕、ひょんな所で「西山記念文庫」理事長の塩崎さん、事務局長の松本さん、顧問の三村先生に会ったので今後の私の「研究計画」案として伝えておいた。

哀悼:足立紀彦君(京大名誉教授、奈良産業大学教授)

2008-03-30 | 京都の思い出(助手時代)
今朝の『朝日新聞』『京都新聞』の訃報欄をみてびっくり、京大名誉教授で、2004年から奈良産業大学に勤めていた足立紀彦君が28日、前立腺がんで亡くなった。享年67歳、新潟県出身(確か新潟高校卒)、私より1歳年上だが、京大工学部の学生、院生時代は同期で「読書サークル」で科学・技術論を一緒に勉強した。

私はその後、京大助手を4年間勤めたが、その時、足立君も助手ではなかったか。数理工学科だったと思う。その後、私は奈良女子大学に転出、足立君は新潟大学に転出、「付き合い」が途切れた。足立君は私よりも背が高く、すらりとしており、余り多言ではないが頭脳明晰、論理的、やはり数理工学は違う、と思っていた。同じ北陸の出身で話のペースは似ていたのではないか。その後、彼は京大に戻ったが、互いに忙しくじっくり話すこともなかった。ご冥福をお祈りする。

西山記念文庫の総会に出席・『西山夘三の住宅・都市論』発刊

2007-06-16 | 京都の思い出(助手時代)
本日、拙宅の近所(木津川市)の積水ハウス総合住宅研究所の会議室を借りて開かれたNPO法人「西山夘三記念文庫」(正式には西山夘三記念すまい・まちづくり文庫)の総会に出席した。私は、西山夘三先生の京大における最後の助手である。思い出し・思い入れがあると言ってよい。理事長が塩崎賢明君(神戸大)、運営委員長が松本 滋君(兵庫県立大)に代替わりした最初の総会だ。私は理事の一人だ。運営の手伝いは、奈良女子大・中山 徹研究室関係の三人に頼んでいる。
先輩の岡田光正先生(阪大名誉教授)、住田昌二先生(大阪市大名誉教授)も来ておられた。住田先生及び西山夘三記念文庫編の『西山夘三の住宅・都市論』(日本経済評論社刊)も発刊され、今日手に入れた。斜め読みだが大変興味深く感じた。まあ身内で書いているので「よいしょ」かと思いきや、住田先生の総論では「西山住宅学の超克を目指して」という節が最後にあって西山先生を相対化しようとしている。歴史は全てを飲み込んで相対化するのであろう。6人で書いている最後の海道清信君(名城大学)の「大阪万博と西山夘三」も正に「文庫」にある西山先生の残された資料を駆使して語っていて面白い。丹下健三さんとの関係や「確執」についても触れられていて、歴史的資料となるであろう。関連で当時、西山先生の下の助教授で万博の目玉「お祭広場」に取り組んでおられた上田 篤先生(京都精華大学名誉教授)にも実際を聞いてみたい気持ちだ。7月28日に大阪で出版記念のシンポが開かれる。詳細は又ブログでお知らせするので是非参加下さい。
もう一つ、西山先生は1911年生れなので2011年(4年後)に「生誕100周年」となる、と住田先生の指摘で分かった。是非100周年の記念行事をしよう、との方向だ。私自身も、それまでに「西山夘三理論を発展させるための一試論」を書かねばなるまい。八つのポイントを考えている。
本が買いたい人、シンポに参加したい人、西山夘三記念文庫に関心のある方は、次にアクセス下さい。http://www.n-bunko.org/