西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

名工大 服部(千之研)OBの集いに参加ー通った当時を思い出しつつー

2015-10-19 | 名古屋・豊田の思い出

2015年10月17日(土)、名古屋市地下鉄池下周辺で名工大の服部千之研究室のOB,OGの集いがあった。その様子の概要を記録しておきたい。

集いは、池下橋本ビル会議室Aでシンポジウム、夕方からグリルプランセスで懇親会があった。両方とも35人前後の出席、懐かしい顔も多いが、私が愛知県を去った1971年以降の卒業・修了生が半数以上であった。

私は、名工大の卒業生ではないが、1966年から1970年間での4年間、「客員研究員」のような格好で、ほぼ定期的にゼミに参加させて貰い、議論に参加し勉強させて貰った。また、共同研究にも参加させて貰った。そのため今回の集いにも「呼びかけ」があったのである。服部千之先生は、28年前の1987年50歳台半ばで亡くなられ、以降、遺稿を編集するなどの企画はあったが、今回のような研究室のOB,OGが集まるのは初めてではないだろうか。

私は、1966年(昭和41年)3月に京大大学院修士課程(建築学専攻、西山夘三研究室)を修了し、4月に国立豊田高専建築学科の助手となり、1968年に講師になったが、1970年(昭和45年)に豊田、愛知県を離れ京大助手(三村浩史研究室)で京都に戻ってきた。

名古屋、愛知県の大学で、当時、京大(大学院含む)建築学科、建築学専攻出身で「計画系」の先輩がいるのは、名古屋工業大学建築学科のみで、服部千之先生(助教授)がおられ、西山研究室出身の先輩だった。そこで、4年間、定期的に服部研に通わせて貰ったのである。その間の私の研究は、残っている建築学会(東海支部)報告、豊田高専紀要、雑誌『建築文化』寄稿、『朝日新聞(名古屋本社版)』寄稿等を見ると、住宅企画(情報)の問題、建築技術の問題などやや抽象的な理論的仮説の発表に傾いている。これらは服部先生やゼミでの議論、建築学会東海支部都市計画委員会メンバーとの議論等によると振り返ってそう思う。

高専では未だ4年生が最高学年で、学生を、即調査研究の「戦力」に想定するには少し無理があった。ただ、5年生になる私の豊田2年目から卒論ゼミがあり、私は「兄貴分」として色々議論した思い出はある。

服部研のゼミでは、僅か4年間だったが今回も当然来ておられた当時助手だった桜井大吾さん(のちRIA)のソフトなふるまい、学生・院生だった1967年学部卒薮田仁一郎さん(現・国際開発センター)の学習姿勢など刺激となった。薮田さんと学生の時に同期で、大学院は(計画的に用意周到に)東大都市工に進んだ西山康雄さんがうかつにも最近亡くなられたと知ってびっくりした。(私のこのブログに西山康雄さんの記事がある。ご覧になりたい方は検索でどうぞ)1970年卒・修了までの彼らと議論したり一緒に調査したりした思い出もなつかしい。「客員」だったが残念ながら亡くなられた私の同期(奈良女子大卒)の森下雅代さんも学生時代に「建築学生会議」で一緒したことも懐かしい。今回おやと思った参加者は八尾新太郎さん(名工大1964年卒、京大大学院で私と同期、構造系、のち関西大)だった。伺うと名工大での卒論は構造系だが服部先生ご夫妻には大変世話になったので・・・、と言っている。他の分野、研究室であっても面倒をみる面倒見の良さがうかがえる。

ついでに建築学会東海支部都市計画委員会の方々も懐かしく思い出す。当時委員長だった早川文夫先生(当時、名大教授)には大変お世話になった。今回も来ておられた私より1級上で今回服部研「最年長」の佐藤圭二さん(当時、名大助手のち中部大)、同じく名工大卒の先輩・松尾博雄さん(当時、名古屋市)、亡くなられた長峰晴夫さん(東大卒、当時公団のち近畿大、名古屋大)、玉置伸吾さん(京大卒、先輩、当時公団のち福井大)との議論も懐かしい。

今回、服部先生の奥様の美枝子さんが元気で出席になられると言うので、私は妻と一緒に(少ししんどい面があるが)参加した。妻は、当時、研究生という形で服部研ゼミに参加しており、私はゼミに行って、偶然にも彼女と再会することになり、ああなって、こうなって1968年3月に東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)主税町クラブで結婚することになったが、「頼まれ仲人(司婚者と言っていた)」を結局、服部先生ご夫妻にお願いすることになり、先生や奥さんに公私ともお世話になったのである。今回、奥さんに直接、お礼を言った。服部千之先生、美枝子様、本当に有難うございました。座から「何年かしたら再会しようや」の声も聞いたので、もしそうなったら元気な限り出ていこうや、と妻とも語りあいつつ、名古屋から京都への帰路についた。

研究ノート 住宅企画展開過程と「情報」ー『朝日新聞』名古屋本社版1970年1月7日夕刊5面ー

2015-08-26 | 名古屋・豊田の思い出
今から45年前、私が28歳で、豊田工業高専に勤務していた頃、『朝日新聞』名古屋本社版1970年1月7日夕刊5面の片隅に「研究ノート」として書いた「住宅企画展開過程と「情報」」のコピーが書斎の片隅から出てきたので、将来書こうと考えている「自分研究史」の資料として、ブログ等に書き写しておきたい。

コピーではなく「書き写し」であるのは、一字一文を思い起こしてみたい、とも思ったからである。

住宅企画展開過程と「情報」  西村 一朗

 私は住宅の供給方式について少少研究してきた。そして今後もしてゆくつもりであるが、その場合、最も大切な前提作業の一つとして住宅需要の状態を把握(はあく)することがある。それは普通、顕在需要と潜在需要に分けられ、それぞれの内容、潜在需要から顕在需要への転化過程などが問題とされる。これらはいわば「マス」として把握され「マス的」-真のマスとは言えないが-公共供給のために活用されて来た。私は、需要と供給の対応という「第三者的見方」から一歩前進して需要を供給へと接続・展開してゆくための一つの方法論ととして住宅需要を個々の「住宅企画展開」として把握したいと思っている。
 すなわち「流動化」し「都市化」しつつある現状において、一般的には個人の住宅企画はきわめてソフトな状態から、いろいろな「情報」を獲得し、いろいろ「学習」しつつハードな状態へと移行するという風に認識するのである。従って「住宅企画展開過程」は「住宅情報収集過程」であると同時に「住宅企画学習過程」となるが、ソフトな段階-ロジャースの「技術革新普及過程」の段階分類を使うと認知、関心、評価の段階ということが出来よう-において、相互検討が加わるなら、現在のマス供給あるいは個人住宅獲得努力は新しい次元でもっと合理的に生かされるだろうと思われる。
 そのためには「住宅情報」をいわゆる「情報化社会論」で問題となっているような「商品化」された「情報」以外のところにも求め、創造的「学習」を行うことが緊要であるといえる。(豊田工業高等専門学校講師・建築学)


当時、私は名工大の服部千之先生の研究室に出入りして調査研究をしていた。建築学会東海支部の都市計画委員会では、名大の早川文夫教授を委員長とし、名工大の服部千之・助教授を幹事長とし、幹事・委員として日本住宅公団の長峰晴夫さん、玉置伸吾さん、名古屋市の松尾博雄さん、名大の佐藤圭二さん、名工大の桜井大吾さんらを擁していた。私も末席で参加していた。

だがこの年の4月に私は京大・助手(三村浩史研究室)に移って、上記の問題意識は一時棚上げとなった。この問題は、少し構え方が違うが、後に巽 和夫先生が精力的に取り組まれた。

1968年3月結婚式、東海銀行主税町(ちからまち)クラブにて

2012-09-18 | 名古屋・豊田の思い出
今日、過去の写真の整理をした。2012年から遡って2009年まであるポジをアルバムに入れた。その他、少し古い過去の写真も見た。

私は1966年(昭和41年)に京大大学院工学研究科建築学専攻修士課程を修了し愛知県豊田市にある国立豊田高専に就職した。

で、京大院の先輩・名工大の服部千之助教授(当時、故人)の研究室に出入りし、そこに研究生でいた彼女と付きあい、1968年3月27日に名古屋の東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の主税町(ちからまち)クラブで、服部千之ご夫妻を媒酌人として「人前結婚」をした。会費制の「人前結婚」は、当時珍しいものではなかった。

懐かしい、「一所無限」かな。再訪してみたいなー。

(写真は、「主税町クラブ」)


繰り言も自分史のうちー年金、医療費負担のことー

2007-11-15 | 名古屋・豊田の思い出
 まあ繰り言を言い出したら「老人だな」と思われるかもしれないが、言っておきたいことが色々ある、ここでは一つだけ年金や健康保険について言っておきたい。
 私が初めて国家公務員(文部教官・助手)として就職した時(1966年)には、年金は20年勤続で貰える権利が発生し、額は給料の40%、以後1年勤務が増えるごとに1.5%増え、40年で頭打ち、その場合は退職時月額給料の70%が退職後月々貰えると言われた。それなら老後は安心だな、と思ったことも公務員になった一つの理由である。今なら63歳の国立大学法人・教授職で多分月給60万円程だから、その7割と言うと月42万円である。まあこれなら悠々と老後が送れるだろう。
 ところが実際は、40年勤続で最終給料の半分以下と言ってよい。これでは皆「だまされた」と思うのではないか。現在、国会でも問題になっているように年金には様々な問題があり、今後も大変なことは分かる。もう少し勉強したい。物価が上がったときどうなるのか、とか・・・。
 次に健康保険だが、同じく就職した時には、保険をかけていれば本人は「ただ」だった。ところが現在3割負担である。70歳で2割負担、75歳以上で1割負担である。年齢が上がるにつれ医者にかかる率は増えてくる。だから2割、1割負担と言っても大変なのだ。今度の参議院選挙で自公政権が負けて、えらいことだ、と「負担一時凍結」を言っているが、出来れば恒久的にして欲しい。少なくとも65歳未満で2割、65歳以上で1割負担、70歳以上は負担なし、無料とすべきである。そのための財源確保のためには、はっきり言って、予告して何年か後に医者の「給料」、取り分を低くすべきである。そうすれば医学部過当競争もなくなるだろう。

黒川紀章氏が12日午前、心不全のため死去、享年73歳。

2007-10-12 | 名古屋・豊田の思い出
建築家の黒川紀章さんが亡くなった。享年73歳で「若い」。黒川さんは愛知県・蟹江町の出身、東海高校を出て、大学は京大工学部建築学科西山夘三研究室1957年(昭和32年)卒、私の7年先輩だ。京大建築では「花の32年組」と言われ、黒川さんは、三村浩史さん(京大名誉教授)、住田昌二さん(大阪市立大名誉教授)、故・湯川利和さん(奈良女子大学名誉教授)等と同期だった。京大同期(工学部紅一点)の前の奥さんと結婚し、人も羨む夫婦だったのに離婚して女優の若尾文子さんと再婚した。これは(「紅一点」に憧れの)同期生には不人気だったようだ。黒川さんは京大を卒業した後、有名建築家になるには東京に出ないと駄目と割り切って東大大学院(丹下健三研究室)に進んだ。丹下研では磯崎 新さんらと一緒だった。私は、1966年京大大学院を修了して豊田高専に就職したのだが、その前後(院生時代かも)に西山研の卒業生も含めた「蒲郡ゼミ」で黒川さんに会った。当時、東京でいかに仕事にありつけるか努力中で建設省に就職した京大建築同期生にアプローチしていることを語っていた。万博の前である。
まあ、東海高校、京大、東大の人脈をフルに活用するなど、機を見るに敏だったが、晩年、東京知事選や参議院選挙に出て落ちたのは、一寸「晩節を汚したかな」ともふっと思う。建築作品やその背景の設計思想・理論等については別に検討したい。でも「この世」ご苦労さんでした、今頃、西山先生、丹下先生らと「あの世計画論」を喋っているのだろうか。

黒川さんについての私の関連ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/e4bb1298e9699fd85c1a98dc53a6d502

「テレビを見ない」と宣言した「テレビっ子」

2007-06-22 | 名古屋・豊田の思い出
昨日の夜、家内と昔話をしていたら「豊田(豊田高専官舎)で結婚生活を始めた頃(1968年4月)、「テレビを見ていると時間も食うし目も悪くなるから見ない」と言っていたのに「一番のテレビっ子」になったのは誰?」と言われた。そう言えば、気負ってそういうこと言ったかなー、と思い出した。家内は、時々はテレビは見たいわ、と小さいテレビを持ってきたのだが、結局、私が「独占」の形となり、徐々に大きなテレビとなってきている。今度の地上波デジタルテレビはどうしようかな。

まあ、最近、眼科に通う身にもなってきたし、そろそろテレビは「自粛」しようかな、と思っている(ないのもさみしいが・・)。実際、最近は「ながら族」でラジオを聞いていることが多い。

日めくり昭和42年(1967年)

2007-01-04 | 名古屋・豊田の思い出
元日夜のテレビで「日めくり昭和42年(1967年)」のような思い出番組をやっていた。丁度40年前ということで、1967年に生まれた40歳の人が多数レポートしていたが、実際には彼らが生まれた年のことだから、彼らが経験としては全然知らないことで、後知恵で聞いたり勉強したりしたことばかりであろう。丁度、私が生まれた昭和16年(1941年)を40歳になった1981(昭和56年)に振り返るようなものだ。私は1941年勃発の太平洋戦争は経験としては全く知らないのである。で、思った。その番組は、40歳を出汁にしているが、実際は、昭和42年(1967年)に二十歳で、今年60歳の還暦(一般に定年退職)になる人たちへのメッセージではないのか、と。二十歳ならば、全て経験していたり考えたりしたことばかりである。私も当時は25歳位で、豊田高専助手であったので、20歳ほど感受性が強くないかもしれないが、大体知っていることが殆どだ。主なことを上げておく。東京はスモッグに襲われており、新宿副都心の再開発が始まった。東京都知事に革新統一の美濃部亮吉さんが当選。前年にビートルズが来日したこともありGS(グループ・サウンズ)旋風、JALが世界で四番目の世界一周航路を開設、ミニスカートがはやり、大学紛争が起こっていた(高専にも余波が及んできた)、ベトナム戦争への最大米軍派遣(50万人)とアメリカでの最大の反戦デモも起きた(終結への始まり)、中国では「文化大革命」(「失われた10年1966年~1976年」)が始まっていた・・・。定年になる還暦の皆さん、20歳を思い出して世界に目をむけ、政治の革新も足元より再度試みてくださいね。

1966年は、どんな年?

2006-08-23 | 名古屋・豊田の思い出
1966年は、私が京大大学院(修士課程)を3月に修了し4月より豊田高専に就職した年だった。その年の6月29日に、かのビートルズが来日し5日間103時間滞在した。私は豊田に就職し慣れるのに忙しくビートルズ等と言っておられない時期だった。同時に1966年は、いざなぎ景気の年であり、大学紛争がぼちぼち始まっていた。又、その1966年11月にトヨタ自工の大衆車カローラが売り出された。以後、日本ではほぼ「ベストセラー」を維持し、最高は年に40万台売ったと言う。これらの情報は、22日夜のNHKTVによる。(写真は、来日したビートルズ)

スイス・アルプスのこと

2006-07-23 | 名古屋・豊田の思い出
現在、このブログの「テンプレート」はスイス・アルプスである。寝苦しい時に、これに替えて涼しい気分になった。前にもしたことはある。この画面を見ていると「名古屋・豊田時代(1966年~1970年、24歳から28歳)」を思い出す。前にも一度書いたことがあるが、今はなき名工大の服部千之先生が、休みによくスイス・アルプスに出かけていて、土産に綺麗な山の写真を貰った。都市計画家が何故アルプスなのか、聞いたら「本当の自然が分からなくて都市計画が出来るのか」と言われてしまった。今でもはっきり覚えている。その後、私自身アルプスに行けたのは、ロンドン在外研究の帰りの1983年の夏でユングフラウに登山電車で登った。
最近、奈良女子大の名誉教授で日本近代史ご専攻の中塚 明先生(岩波文庫:陸奥宗光著『蹇蹇録(けんけんろく)』の校注の他、日朝関係史著書多数)もスイス・アルプスにご執着のようだ。全くの推測だが、人間臭い、しかも現代に近い歴史をやっておられると、いわば対極の外国の自然に惹かれるのかな、とも思う。これは、人間環境のバランスであろう。私の中でも又行きたい「虫」が動き出している。(写真はユングフラウヨッホ登山鉄道風景)

吉武祐一君、西山康雄君ごめんね+コルビュジェごめん

2006-07-23 | 名古屋・豊田の思い出
私が豊田高専にいた時(1966年~1970年)、『建築文化』誌の懸賞論文に応募して佳作になったことがある。審査員は建築家の槇 文彦先生だった。その時に同じく佳作入選したのが吉武祐一君で当時、東大大学院生で鈴木成文先生の研究室だった。聞くと学部は京大だった。私の後輩である。現在はコンサルの「ランドブレイン」社長である。ところで「吉武」というと「吉武泰水」先生を思い出し、鈴木先生の東大での先生である。もう一人、名工大の服部千之研究室の学生に倉敷出身の西山康夫君がいた。彼はその後東大大学院(都市工)に進み現在、東京電機大学教授である。服部先生の京大大学院での先生が「西山卯三」先生である。
そこで、当時、私は思った。鈴木先生も服部先生も二人の先生と同じ名前の弟子がいたので「おい吉武!」とか「おい西山!」とか言えて良かったのでは、と。
別の話だが後で安藤忠雄さんが犬を飼っていて名前が「コルビュジェ」であると知った。
「おいコルビュジェ!」も気分良いかもしれない。
(写真は西山康雄さん、学生時代と全然違う風貌!)

私達の「結婚式の栞」

2006-07-15 | 名古屋・豊田の思い出
05年11月20日のブログで前田真子さんの結婚式に出た余韻で自分達の結婚式を思い出している。それによると「私達の結婚式は、1968年(昭和43年)3月27日に名古屋の東海銀行主税町(ちからまち)クラブで「人前結婚」で行われた。司婚者に服部千之先生(当時、名古屋工大助教授)夫妻をお願いした。」とある。ここに言う「人前結婚」については、最近、教え子の高岸亜衣子さんの結婚式で久しぶりに体験した。(ブログ06年5月21日参照)
今日、書斎の本棚の「整理」を一寸していたら本の間から私達の「結婚式の栞」が出てきた。「鬼のいない間」に一寸紹介する。(「鬼」によると、こういうことを書くのは「プライバシーの侵害」となる。私は、慎重に扱えばそうはならない、と思っている)日付は、1968年3月27日で約38年強前のことだ。自分として「人前結婚」なら二人の誓いの言葉が、通り一遍のものではなく真剣に考えるべき一番大事なものと考えて二人で何回も推敲した。それの概要は覚えているが一語一句「そうだったな」と今日再確認した。栞に書かれているからだ。その内容は、長たらしいので今日は引用しないでおく。一寸肩に力の入ったやや生硬なものと、現在なら言える。とにかく、ほぼその線で生活してきたことに間違いはない。全員合唱の楽譜もあるが、シュトウンツ作曲の「自由の歌」である。「うたえいざわーこうどこえもたからに・・」時代だな、とも思う。
準備会メンバーも書かれている。全部で9人だが、豊田高専関係4人、名工大関係3人、家内の友人2人である。そういえば、家内は、今日その二人を含む友人に会いに行っていて不在なのだ。

豊田高専時代の研究と教育(1)

2006-06-03 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専時代の研究と教育について思い出しておきたい。卒業生のHIRO君達も時々はこのブログを見ているようなので、どういう気持ちで豊田時代を過ごしたか語っておきたいと思う。その時代は、1966年~1970年のほんの4年間だったが、いわば「社会大学」初期を駆け足で過ごした感じだ。24歳から28歳の頃だ。2年間は助手、2年間は講師だった。また2年間は独身、2年間は家族もちで娘も生まれた公私とも激動の時代だったとも言える。助手の時代からスタッフの関係で若干の講義をもたされた。講師時代は、都市計画、建築一般構造、建築施工を教えたと思う。勿論、設計製図も担当した。都市計画は、まあ何とかなる感じだったが、他の二つは学生時代に大学で習っただけである。建築一般構造は、当時は同じ高専におられた山本和夫先生に、京大時代に丁寧に習い(05年10月25日ブログ)、大倉三郎先生著の教科書もあり、それをしっかり予習して講義すればよかったが、施工には弱った。大学での講義は、棚橋 諒先生の「短い」講義しか聞いておらず、どうしようか、と思った。当時発刊の『施工』という雑誌をとり勉強、大学時代に夏休みに金沢の現場で実習した経験も役に立った。今で言う「インターンシップ」である。勉強のおかげで、「クリティカル・パス・メッソッド」という並行する多様な工事を分析して、一番先にやらないと後が滞る「クリティカル・パス」を見つけて、そこをまずやるという現場管理法があることが分かった。それまでの並行する「棒状管理」と少し違うもので段取りの合理化、見易さ追求であるが、あれは今どうなっているのだろうか。現場実習の記録を作れ、と学生に言ったら、2期生のK君は、驚くべき克明なものを作って私を驚かせた。記念にコピーさせてもらったが、豊田時代の段ボールの何処かに入っているだろうか。

早川文夫先生亡くなると聞く

2006-04-30 | 名古屋・豊田の思い出
昨日、安藤元夫君の告別式で名古屋の佐藤圭二さん(中部大学教授)に会った。佐藤さんは、先だって早川文夫先生(名古屋大学の初代計画系教授)が亡くなられた、95歳の大往生だった、と言われた。昨年の7月10日ブログに、昔、佐藤さんと早川先生を訪ねた話を書いている。その他「早川文夫」で検索すると多数の記事が出てくる。私の二十歳台、名古屋・豊田時代の4年間、色々世話になり連名で建築学会大会に投稿している梗概もある。豊田市における自動車公害に関する調査研究である。
佐藤さんと訪れたとき早川先生は90歳を越え、我々は60歳を越えたばかりだった。
再度、書くが早川先生は別れ際に「今日は若い人々に会えて楽しかった」と言われた。私は思わず(後ろに誰か「若い」人がいるのかと)振り返りそうになった。

そのときの感慨:若き人に会えて楽しと言われけり卒寿を訪ぬ還暦うれし 市路

杉浦昭三先生(豊田高専)の思い出

2006-02-05 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専建築学科教授だった杉浦昭三先生が亡くなられたのは、昭和51年(1976年)4月24日、享年47歳であった。今から30年ほど前のことである。私は、当時、既に京大(助手)から奈良女子大(助教授)に移っていた。私が、豊田高専に助手、講師でいたのは、それ以前の昭和41年(1966年)~昭和45年(1970年)であった。その時に、杉浦昭三先生は、計画系の助教授としておられた。私は京大で修士を修了してすぐ豊田に赴任して初めてお会いした。先生は当時37歳、なかなか元気の良い朗らかな性格で、酒は殆ど駄目だが、ヘビースモーカーであった。西三河の岡崎のご出身で大学は日大建築学科であった。卒業後、郷里の愛知学芸大学(その後、愛知教育大学)の施設課に技官としてつとめ、昭和40年(1965年)に豊田高専建築学科に教官として移られた。私が行く1年前である。その後、1972年に教授になっておられる。私が行ってから、杉浦先生は日大後輩の田中清人さんを助手で引っ張ったり、私の離任後、東大の鈴木成文さんに頼んで鈴木研にいた深沢大輔さん(現・新潟工科大教授)を引っ張ったりして人事でも手腕を発揮した。田中清人さんが来られてから田中さんも岡崎方面に住み出したので、行き来で田中さんの車で来られたこともあった。当時ボーリングが流行っていて岡崎のボーリング場に皆で行ったこともある。先生は、亡くなられる1週間前に研究室で脳出血で倒れられたが、一寸皆と離れた研究室だったので一寸発見が遅れた、と聞いた。酒は飲まれなかったが凄い煙草だった記憶があり、それが影響したかもしれない。お嬢さんが二人、末に息子さんがおられたが、もう40歳以上である。岡崎方面に行ったら、お参りに行きたいと思っている。

豊田の思い出から、住み始め

2006-01-18 | 名古屋・豊田の思い出
私が豊田高専に勤めていたのは1966年から1970年までの4年間で、私の社会人になって最初の「社会大学」だったとも言える。その様子は、名古屋に出かけた体験も含め、カテゴリー「名古屋・豊田の思い出」で見てほしい。カテゴリーをクリックすると過去の記事が出てくる。今日は、豊田高専一期生のHIRO君から「豊田市市勢要覧」や「豊田市美術館」の資料を送ってもらったので、つらつら眺めて40年前を思い出していた。現在、大合併で豊田市人口は40万人と高槻市を抜いて金沢市に迫っている。40年前は、挙母市から豊田市に改名まもなくの頃で人口は10万人以内だったと思う。未だ国鉄「岡多線」(岡崎ー多治見を結ぶ)もなく、名古屋からは名鉄本線の知立で乗り換えてやってきていた。私は、大抵名古屋駅近くの名鉄メルサからバスで往復した。最初に1,2ヶ月いたのは、崇化館中学(そうかかんちゅうがく)の近くの「杉浦アパート」という材木屋さんの経営のアパートだった。そこから畑の中を歩いて10分ほどの国立豊田高専に通いだしたのだった。(写真は、崇化館中学)