「夜と霧」。
多分、保育士試験の勉強をしなければ、一生読むことはなかったと思う。
福祉の歴史とか勉強してた時に、知った人物。
アウシュビッツ収容所を含めた、4つの収容所を生き抜いた心理学者。
心理に焦点を当てているので、そんなにおぞましい描写がなくて助かった。
そういうのは、苦手。
実際のところ、その立場に立ってみないと、本当の気持ちを理解することは難しいとは思う。
ただ、過酷な状況が当たり前の日常になると、鈍感になるというのはわかる気がする。
私が無職の間、本当に節約して暮らしていた時、自分の事、自分が生き延びる事しか考えられなかった。
政治がどうとか、どこかの地域に天災があって悲惨な状況とか、気にならなかった。
興味が無かった。
ずっと続けてきたプランの寄付も、無職になって暫くの間は続けていたけど、結局やめている。
支援しているカンボジアの女の子はまだ7〜8才だったので、18歳に終了するまでだいぶ時間はあったし、悪いなとは思ったけど。
話がそれた。
ということで、あんまりピンとは来なかった。
それだけ私の今の生活は、恵まれているということなんだろう。
しかし著者が言いたいのは、多分どれだけ過酷だったか、ではなくて。
過酷な中に、ユーモアとか、美しさとかを見出すことは出来る、という事。
いや、過酷な状況のときこそ、ユーモアとか美しさが大事という事。
アウシュビッツ収容所から次の収容所に移される時、車窓?から見た景色の美しさに、誰かが「この世はなんて美しいんだ!」と言ったというエピソードは、印象的だった。
どんなに悲惨な日常でも、美しいと感じる心はあるんだな。
そして、そんな美しい景色が自分の力になって、辛い日常を耐えていけるのじゃないのかな。
そしてもう一つ。
あまりに辛くて、人生に何も期待出来ないし、自分はもう生きている意味が無いという仲間に、フランクルが返した言葉。
自分が人生に何を期待するか、ではなくて、人生が私に何を期待しているのか?が大事、と。
そうか〜。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます