これは喜びであろう筈なのに
より良き共存を模索する行為でもあろう筈なのに
いつ頃からか
人々の苛立ちの中に
目の前に人が居る煩わしさ
話すことの面倒臭さ
触れ合うことなどに至っては(皮膚の接触のことでは無く)嫌悪さえ伴う拒絶が
感ぜられるようになった
それは異なるものを拒絶する排他主義とはずいぶん様相が異なり
又他者を見下す卑小さ、愚劣さによるものとも少し異なる
これはなんだろうと思いつつも
この拒絶から生じる閉塞感と言ったら良いのか
そんな獏としたものが日本から希望を削いでいるな…
と、そんなことを考えていたら
養老孟司氏が実に興味深い発言をしていらっしゃって「おぉ」と思った
曰く「人が安くなったということですよ。人が増えすぎて有難くなくなったんです」
加えて氏は「合理的、効率的を謳い文句に加速するシステム化により生身は消失し、あらゆるものが単なる情報としてデジタル処理され、管理され、人の顔がいらなくなってるんです」と結ぶ
氏の話は腑に落ちる
システム化を進めれば進めるほどに便利で効率は良くなる
が、デジタル処理できないものは置かれてゆく
それが人の心であっても(或いは言葉にならない心であればこそ)
システムの網目から虚しく零れ落ちてゆく
曖昧なもの、不確定なもの、数値化できないもの、言語化できないもの
それらはシステムという世界に「存在しない」と見做される
さて、舞台である
舞台という「場」は目の前に人が居ることを前提にしている
空間共有を前提にしている
少なくとも、今のところは…
舞台配信などもう珍しくなくなってきたし
もう少し技術が進めば立体映像による演劇興行も可能になるであろう
しかし冒頭に記した
目の前に居る人と話し、触れ合う喜び
その共有に関して言えば
技術革新が進んでもライブ(生身)を超えることはまだまだ難しいと踏んでいる
それは
システムの網目から虚しく零れ落ちてゆく曖昧なもの、不確定なもの、数値化できないもの、言語化できないもの
これらを掬うことができるからである
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