沖縄・台湾友の会

《台湾に興味のある方》《台湾を愛する方》《不治の病・台湾病を患ってしまった方》皆んなで色々語り合いたいものです。

【追悼】ありがとう、黄文雄先生

2024-08-30 22:45:59 | 日記
【追悼】ありがとう、黄文雄先生

       台湾独立建国聯盟日本本部 総務部長 片木裕一

 黄文雄先生とご縁をいただいたのは、20年以上前のことだった。

 私が初めて台湾を訪ねたのは1996年の3月で、目的は「台湾の鉄道を見に行くこと」

だった(私は鉄路迷)。勿論翌週に総統選挙の投票があることは知っていたが、正直

なところ、タカを括っていた。

 行ってビックリ見てビックリ、台湾全土が日本では考えられないほどの熱狂ぶりだった

のだ。結局初台湾の3泊4日は「総統選挙ウォッチング」になり、帰国後は台湾に関する

本を読み漁った(投票が午後4時までで期日前投票制度もないのに投票率は76%という

ことにも驚かされた)。そして、当時は台湾に関する本はあまりなかったこともあり、早々

に黄文雄先生に辿り着いた。

 数年後、転勤で大阪から東京に移り、友人の紹介で「台湾研究フォーラム」に参加したが、

そのとき初めて黄文雄先生にお会いした。さらにその場には宗像隆幸先生や金美齢先生

もおられ、大変驚いたものである。なお「台湾の声」の林建良先生にご縁をいただいたのも

この頃だった。その後、台湾研究フォーラム主催の「認同台湾ツアー」に参加したのだが、

歴史的な施設では黄文雄先生に直接説明をいただき、台北のホテルの会食では黄昭堂

先生、蔡昆燦先生をご紹介いただき、その後も現職の立法院議員や次回の台北市長選挙

の候補者を訪ね、黄文雄先生は解説・質問・通訳の1人3役の大活躍! 黄文雄先生の

圧倒的な知識量と広範な人脈には、ただただ驚くばかりだった。

 結果、黄文雄先生にお会いするまでは台湾訪問は年1回程度の初心者だった私が、台湾

に首まで漬かるのに大した時間はかからなかった。

さらに数年後、私は勤務先を早期退職し、台湾関係の有志が出資して立ち上げた会社に就職

したが、黄文雄先生にはその会社の初代社長に就任していただいた。黄文雄先生は会社経営

には殆ど指示はされなかったが、幾度となく到来した会社の危機に対しては、それとなく助言

いただいたことを忘れない。

 現在私が台湾を軸にしてビジネスと私的活動ができているのは、一重に黄文雄先生のお蔭と

いって間違いない。ただただご冥福をお祈りしたい。

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台湾の声


 ティラースゥイフトとかけてテロと解く。そのこころは   ウィーン会場で大量殺戮をISISが狙っていた

2024-08-30 22:44:09 | 日記
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)8月30日(金曜日)
     通巻第8388号   
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 ティラースゥイフトとかけてテロと解く。そのこころは
  ウィーン会場で大量殺戮をISISが狙っていた
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 CIA副長官のディビッド・コーエンが明らかにした。
8月8日から三日間予定されていたティラースゥイフトのウィーン公演は、ISISのテロリストの襲撃計画があったため事前に二人の容疑者が逮捕され、取り調べが進んでいた。

 CIAはウィーン公演が6・5万人収容のスタジアムで行われ、ISISは重火器や爆弾を準備し、数百から数千の殺戮を狙ったことがわかったとした。

 ティラースゥイフトは世界的な人気を誇る歌姫で2023年11月のリオデジャネイロ公演では熱中症の姓で一人が死んだ。ことし2月の東京ドーム公演では四日間連続、会場を満員にした。テロ未遂事件以後、8月20日にはロンドンで公演が開催され、チケットが14万円で取引されたとか。

 じつは筆者、この歌手の名前と顔は知っているが、どんな歌を唱っているのか、なぜ世界中で承けるのか。ビートルズの再来なのか、よくわからないし、そもそも興味なしである。
 関心の的は、なぜ彼女の公演がいつも狙われ批判されるか、である。

 ティラースゥイフトは民主党支持者として知られ、前回はバイデンを支援した。このため民主党がイスラエルを支援し、そのイスラエルがガザに対して軍事行動をとり、アメリカが、そのイスラエルを支援していることに、ISISなどが絶好の攻撃目標、政治宣伝の場を見出して居るからだろう。


チャイニーズ・ヒルビリー・エレジー(その4)    中国映画も興業収入が半減。映画館に行けなくなった

2024-08-30 22:42:39 | 日記
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024年)8月29日(木曜日)
     通巻第8387号   
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 チャイニーズ・ヒルビリー・エレジー(その4)
   中国映画も興業収入が半減。映画館に行けなくなった
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 中国人の娯楽は反日映画(ほぼマンネリ、演技下手の無内容)を見て、日頃の政治の貧しさに対しての鬱憤をはらし、溜飲を下げ、山のように飯をかき込み、あとは昼寝だった。
改革開放政策に移行して以後は、ある程度の国際化を果たして日本や欧米の映画が輸入されるようになると、その映像の美しさ、アクションのすさまじさ、自由は表現、辛辣な批判の台詞に驚いた。

80年代のおわり頃から情報の公開がちょっぴり進んで、90年代にはハリウッド映画は新作がすぐ海賊版となり、一枚70円とか、百円だった。米国の映画館で盗撮である。台湾でも街の辻で屋台の書店、禁止されていた党外雑誌が売られても警官が取り締まらなくなった。
台湾でも当時、日本映画の輸入は一年に四本だった。それも小津安二郎、黒澤明などで、ならば庶民はどうしていたか。日本でヴィデオをかって複製をつくり、下町へ行くとNHKの大河ドラムからプロレスまで、なんでもあった。
なにしろ台湾では英米の書籍を写真製版した海賊版が出回っていて、500円程度でアメリカのベストセラーも買えた。

このような海賊行為に対して著作権に五月蠅い日米欧が中国にやかましく言うと、街からは消えた。ところが通信販売という手があった。オークションのかたちにすれば、封切り映画でも精巧な海賊版が入手できる。北京の秀水市場は贋物、模造品のデパートで、たとえば20万円のルイビュトンが2万円とか。抗議しているアメリカ人が一番買い物にくるところでもあった。

 日本映画は「君よ憤怒の河を渡れ」が大ヒットし、「おくりびと」などが続いたが、年間12本に規制されているので最近のヒットは「どらえもん」、「クレヨンしんちゃん」、「コナン」など、お子様市場である。

 バブル崩壊、消費激減、経済の沈滞、賃金の低下などにより、中国人は映画館に行かなくなった。いや「行けなくなった」のだ。

 食費についでの娯楽費はスマホに消える。書籍を買うなんて発想はない。
 料金は中国ではシーズン、オフシーズン、時間帯などによって映画館が勝手にきめる。40元(770円)から80元(1500円強)と幅広い相場である。
しかし封切りにカネを遣うのは勿体ない、自宅で見るという若者が増えて、映画館の観客はピーク時の半分になった。最近のヒットは「逆行人生」、「長津湖」、そして「海街奇譚」くらいだろうか。

いずれの作品も基調が哀愁、派手なアクションも、コメディも下火である。
 「海街奇譚」という映画の粗筋は失踪した妻を追って不思議な旅に出た男が旅先で知り合う田舎の女性教師、ダンサー、安宿の女将。それぞれが憂いをかかえ、絶望の未来を見透し、日常を送っている。あのエネルギッシュな中国人がそこには居ない。

 「長津湖」は朝鮮戦争を舞台に中国人兵士が激戦と悲惨な状況を耐え抜くという映画、なんだか不況に耐える風潮を象徴している。「逆行人生」は前号で紹介した。
 かくして最大の娯楽産業だった映画も中国ですら斜陽化の兆しが見られ、中国の若者はテレビゲームである。
 将来の夢を語る雰囲気は希薄である。


鍛冶俊樹の軍事ジャーナル (2024年8月28日号) *領空侵犯されて訪中?

2024-08-30 22:41:52 | 日記
鍛冶俊樹の軍事ジャーナル
(2024年8月28日号)
*領空侵犯されて訪中?
 26日、長崎県の男女群島沖の日本領空を中国軍機が約2分間、侵犯した。2分間とは短いと思う人がいるかもしれないが、その間の飛行距離は十数キロメートルに及ぶ可能性があり、とても短いとは言えないのである。中国による領空侵犯は過去に2例あるが、軍用機による侵犯は、これが初めてである。
 中国軍機が日本の領空に接近した段階で、空自機がスクランブル発進して警告を発しているはずであるから、うっかりミスと言う事はあり得ない。要するに意図的な軍事作戦としか考えようがない。では、その意図とは何か?

 翌27日、日中議員連盟の二階俊博会長らが訪中したが、事前に予定されていた訪中であるから、ここを狙って仕掛けたと見て間違いない。本来であれば、訪中をキャンセルすべきなのだが、二階らはキャンセルしなかった。これこそ中国の思う壺(つぼ)である。
 二階らは中国で抗議するつもりらしいが、中国側は「状況を調査中」などといってお茶を濁すに決まっている。米国を含めた諸外国から見れば、日本は領空侵犯されて中国に膝を屈したとしか見えないだろう。

 航空自衛隊の対応も情けないものだった。1987年12月にソ連(ロシア)軍機が領空侵犯した際に空自機は初の警告射撃を行った。外務省もソ連大使を呼びつけて抗議し責任者の処罰を要求した。ソ連側は悪天候と計器の故障による事故と釈明し責任者の処分を約束した。
 絶対に自国の非を認めないはずのソ連が非を認めた珍しい事例だが、この4年後にソ連は崩壊したのである。
 今回、空自は警告射撃を行わず、外務省は中国大使を呼び出さず、訪中団はキャンセルせず、日本は中国に対して腰砕けの醜態を国際社会にさらしたわけである。


「台湾の声」【追悼】黄文雄(こうぶんゆう)氏

2024-08-30 22:39:18 | 日記
【追悼】黄文雄(こうぶんゆう)氏

          宮崎正弘

 中華思想の欺瞞を、膨大な資料を読み込んだ知識を背景に誤謬にみちた通俗史論をばっさばっさと裁断して中国史の影に光を当てた。中国人の暗黒面、そのグロテスクな醜さを日本史と比較して抉り出した。黄文雄さんは、歴史家であり台湾独立の活動家、ユニークな思想家だった。

 最初にあったのは四十年は前だろう。小生の最初の質問は「NYプラザホテルの玄関で訪米中の蒋経国を狙撃した黄文雄とは、貴方ですか?」だった。
「ちがいます。同名異人です。親戚でもないのです」

 氏は速筆で下書きはノートに鉛筆、その旺盛な作家活動。ベストセラーの印税は台湾独立運動に寄付した。二百冊におよぶ著作は中国の歴史を冷徹に述べたもので多くの読者を獲た。酒はたしなむ程度だったが、往時は毎週のようにあっていた。議論することが山のようにあった。
拓殖大学の客員教授として大學史、とくに台湾開拓の目的が拓殖大学の由来だから、大學でもよくあった。井尻千男教授主催の日本文化研究所公開講座では毎月、おわって二次会は茗荷谷周辺の居酒屋だった。氏が主催の忘年会も関係者、とくに編集者をあつめて毎年おやりになり師走の新宿歌舞伎町の中華料理は百人くらいが押し寄せた。

総統選挙の度に台北で、関係者を呼んでのパーティも主催され、台湾取材にきていた日本人記者の多くも招かれたので百人以上が会場に犇めいた。
台湾でのシンポジウムにも御一緒する機会があったが、ふたりで台湾大學で講演したとき、小生のほうは北京語通訳、黄色さんは台湾語で通訳無し。若い台湾人は北京語しか出来ないので、分からないと言っていた。

それでも台湾語で通した。これが氏の哲学である。
台北旅行は格安チケットを探しだし、ホテルは二つ星程度か、殆どYMCAだった。ふたりで対談本も編んだ(宮崎正弘v黄文雄『中国人の野蛮』、徳間書店)
 このところ、体調不良と伺っており、連絡が途切れていた。七月に逝去されていた。合掌。

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台湾の声