私がピアノと出会ったのは小さい時。
祖母、父、母がピアノを弾く人だったので、
最初は家族に教わりました。
3才で「エリーゼのために」を弾いていたらしい。
その後、6才から先生に習い、よく合唱の伴奏をしていました。
近所では、ピアノがうまい子としてちょっと有名でした。
祖母と母はかなりのスパルタで、
楊枝をピアノの端にドサッと置いて、
「1回練習したら反対に置いて、これ全部反対に置くまで練習!」
とか、
「~ちゃんは今頃練習してるよ!」
とハッパかけられたり。
それで黙々と練習して本はどんどん進んで行ったけど、
だんだんピアノが楽しくなくなっていきました。
中学に入り、部活や塾で忙しくなり、
ピアノから徐々に気持ちが離れていきましたが、
ある時図書館のレコード室でキーシンが弾いている
ショパンのピアノ協奏曲1番を聴いて、
感動と同時に衝撃を受けました。
そして自分も人に感動を与えられるピアニストになってみたい!
と思い、猛練習を始めました。
そして高校一年の時、習っていたピアノの先生に、
「音大のピアノ科に入って、ピアニストを目指したいです。」
と伝えました。
しかし、
「音大に入ったってピアニストになれるわけじゃないし、
あなたでは無理だから、普通に勉強して、
普通の大学に入って、就職しなさい。」
と言われました。
今思えば、本当にクラシックのコンサートピアニストになろうと思ったら、
小さい時から音大の先生について、ピアノ中心の生活をしなければならないのだと思うし、
先生のおっしゃることももっともだと思います。
私の両親は私をピアニストにする気はなかったので、
そこまで専門的に学んでいた訳ではありませんでした。
しかし、当時の私にはショックでした。
ショックのあまり、その先生のところは辞めてしまいました。
また、両親が音大進学に反対だったこともあり、
音大進学を諦め、他の大学進学のための受験勉強をしました。
しかしピアノは独学で弾き続けました。
勉強そっちのけで弾いていたかもしれません。
きっと近所迷惑だったことでしょう。
ショパン、ラフマニノフ、リスト、ベートーベンなどを
かなりデタラメだっと思いますが、耳コピしたりしていました。
そして何とか奇跡的に大学に合格し、大学のロシア語学科に入り、
音楽、劇団、国際交流、といろんなサークルに顔を出すようになりました。
音楽系では、ロシア民謡、室内楽、ピアノサークルに参加し、
人前で即興演奏をするようになりました。
意外にも、ピアノがうまい人が多い大学で、いい刺激を受けました。
また、駅前でギター弾き語りする人を見て自分もやりたくなり、
路上ギター弾き語りやフルート演奏をしていました。
そして、ギター弾き語りの友人に誘われ、ライブでキーボードを弾かせてもらったり、
録音に参加させてもらったりしました。
その後はごく平凡に就職し、音楽のことは忘れて生活していたのですが、
縁あって新潟に来ることになり、
来てみたらとてもジャズの盛んな土地だったのです。
そしてライブを聴きに行ってみたりするうち、
自分もジャズを歌ってみたい!と思うようになりました。
また別のある時、ピアノ弾き語りシンガーソングライターの方のライブを聴きに行き、
自分もピアノを弾いたり、曲を作ったりしてるから、
これならできるかもしれない、と思うようになりました。
そんなこんなで、ジャズピアノ、ジャズボーカルを先生について習い始め、
数年前から「ピアノ弾き語りPearl」として、
時々ライブに出させて頂くようになりました。
父がジャズ好きだったので、よく家でかかっていたのですが、
自分が演奏するようになるとはびっくりです。
まさか新潟に来て音楽がまたできるようになるとは思わなかった。
人生何があるかわからんもんです。
新潟に感謝、ジャズに感謝。
また、数年前から、私が音楽と同じように興味を持つ、国際交流と結びつけて、
「音楽で国際交流」という取り組みを始めました。
音楽も、国際交流も、これからもマイペースに続けていきます。
長文失礼しました。
祖母、父、母がピアノを弾く人だったので、
最初は家族に教わりました。
3才で「エリーゼのために」を弾いていたらしい。
その後、6才から先生に習い、よく合唱の伴奏をしていました。
近所では、ピアノがうまい子としてちょっと有名でした。
祖母と母はかなりのスパルタで、
楊枝をピアノの端にドサッと置いて、
「1回練習したら反対に置いて、これ全部反対に置くまで練習!」
とか、
「~ちゃんは今頃練習してるよ!」
とハッパかけられたり。
それで黙々と練習して本はどんどん進んで行ったけど、
だんだんピアノが楽しくなくなっていきました。
中学に入り、部活や塾で忙しくなり、
ピアノから徐々に気持ちが離れていきましたが、
ある時図書館のレコード室でキーシンが弾いている
ショパンのピアノ協奏曲1番を聴いて、
感動と同時に衝撃を受けました。
そして自分も人に感動を与えられるピアニストになってみたい!
と思い、猛練習を始めました。
そして高校一年の時、習っていたピアノの先生に、
「音大のピアノ科に入って、ピアニストを目指したいです。」
と伝えました。
しかし、
「音大に入ったってピアニストになれるわけじゃないし、
あなたでは無理だから、普通に勉強して、
普通の大学に入って、就職しなさい。」
と言われました。
今思えば、本当にクラシックのコンサートピアニストになろうと思ったら、
小さい時から音大の先生について、ピアノ中心の生活をしなければならないのだと思うし、
先生のおっしゃることももっともだと思います。
私の両親は私をピアニストにする気はなかったので、
そこまで専門的に学んでいた訳ではありませんでした。
しかし、当時の私にはショックでした。
ショックのあまり、その先生のところは辞めてしまいました。
また、両親が音大進学に反対だったこともあり、
音大進学を諦め、他の大学進学のための受験勉強をしました。
しかしピアノは独学で弾き続けました。
勉強そっちのけで弾いていたかもしれません。
きっと近所迷惑だったことでしょう。
ショパン、ラフマニノフ、リスト、ベートーベンなどを
かなりデタラメだっと思いますが、耳コピしたりしていました。
そして何とか奇跡的に大学に合格し、大学のロシア語学科に入り、
音楽、劇団、国際交流、といろんなサークルに顔を出すようになりました。
音楽系では、ロシア民謡、室内楽、ピアノサークルに参加し、
人前で即興演奏をするようになりました。
意外にも、ピアノがうまい人が多い大学で、いい刺激を受けました。
また、駅前でギター弾き語りする人を見て自分もやりたくなり、
路上ギター弾き語りやフルート演奏をしていました。
そして、ギター弾き語りの友人に誘われ、ライブでキーボードを弾かせてもらったり、
録音に参加させてもらったりしました。
その後はごく平凡に就職し、音楽のことは忘れて生活していたのですが、
縁あって新潟に来ることになり、
来てみたらとてもジャズの盛んな土地だったのです。
そしてライブを聴きに行ってみたりするうち、
自分もジャズを歌ってみたい!と思うようになりました。
また別のある時、ピアノ弾き語りシンガーソングライターの方のライブを聴きに行き、
自分もピアノを弾いたり、曲を作ったりしてるから、
これならできるかもしれない、と思うようになりました。
そんなこんなで、ジャズピアノ、ジャズボーカルを先生について習い始め、
数年前から「ピアノ弾き語りPearl」として、
時々ライブに出させて頂くようになりました。
父がジャズ好きだったので、よく家でかかっていたのですが、
自分が演奏するようになるとはびっくりです。
まさか新潟に来て音楽がまたできるようになるとは思わなかった。
人生何があるかわからんもんです。
新潟に感謝、ジャズに感謝。
また、数年前から、私が音楽と同じように興味を持つ、国際交流と結びつけて、
「音楽で国際交流」という取り組みを始めました。
音楽も、国際交流も、これからもマイペースに続けていきます。
長文失礼しました。