自燈明・法燈明の考察

三世間について考える

 久しぶりに記事を更新します。

 法華経とは大乗仏教の最高峰の経典と呼ばれていますが、日蓮によれば、それは一念三千という考え方が示されているからだと言います。

 ただこの「一念三千」とは、天台宗の重要教書には明かされておらず、ただ内観という修行の際の手引書に書かれていると言うのです。この事は日蓮が「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の冒頭で論じている中に書かれています。
 法華経の中には明確にはこの「一念三千」という考え方は書かれていません。この一念三千というのは、法華経に説かれている様々な物語の中から、体系として後世にまとめられたと捉えるべきでしょう。

 こういった事について、日蓮正宗や創価学会でも教えていませんし、こと創価学会に至っては、近年、選挙の事は教えても、こういった教理的な事を会員に教えることはありません。創価学会では池田哲学と言いながら、その池田哲学の根幹と教える日蓮の事、また天台宗や大乗仏教、そして仏教そのものについては、組織的に都合の良いところを抜き取り語っているに過ぎないのです。

 それなのに任用試験だ教学試験なんて、形だけやっていますし、未だに折伏(しゃくふく)なんて単語だけ生きているのだから、とても不可思議な組織ですよね。

 今日語りたいのはそんな些末な事ではなく、この人類社会を考える際に、この「一念三千」がとても大事な視点を提示している事について、少し書いてみたいと思います。

 ここ最近になって、日本社会もそうですが、何か世界全体が狂ってきている様に、私なんかは物凄く感じるのですが、皆さんはそんな事を感じませんか?

 例えば「トー横界隈」という新宿歌舞伎町の一角にたむろする若者たち、煽り運転で見える自己中心的な行動、多様性を声高に叫びながら社会の基本的なモラルを平気で破壊していく無知な人々。もう上げたら切りがありません。

 国際的に見てもロシアのウクライナ紛争の周辺もオカシナ話が満載ですが、イスラエルのガザ地区攻撃を含め、これらの事を理解するには旧約聖書の内容や、ヤソ神を信仰してきた彼らの歴史、またパレスチナ地域の歴史への理解なくしては語れません。岸田総理に至っては、そういった事を理解してないのでしょう。こういう事に振り回され、資金だけ吸い取られ放題ですからね。まあこれは岸田総理個人の問題と云うよりも、今の日本の政治的な病理が浮き彫りになった姿なんでしょう。

 まあこういった事について、その実相の一端を理解するのに、先に述べた「一念三千」はとても大事な視点を提供してくれます。

 一念三千とは、その基本的な事に、十界互具百界千如があります。
 これは地獄界から仏界に至る各境涯に、それぞれ十界が備わる事を指しています。まあ十界と言っても実態としては九界(菩薩界)までの事で、仏界は少し別格に捉えるべきですが、そこは今回置いておきます。
 この十界互具とは人の考え方や感情というのは、単純に善悪浅深という単純な事ではないというのを示しています。例えば泥棒(餓鬼界)という行為があったとして、その泥棒という行為を引き起こしたのは、実は他者に対する慈愛(菩薩界)の結果という事もあり得ます。貧困の中、子供や家族を守る為に泥棒を行ったとしたら、これは単純に「餓鬼界」の行為だから愚劣な行為と単純に断じることは出来ません。
 これはわかり易い例ですが、人の感情や考え方、それにより起こす行為というのは、そういった様々な境涯的な相関関係の上に起こされる事であり、単に表面に出てきた事で、それをステレオタイプに決めつけて判断することができない事を明かしています。

 そしてこの百界千如に三世間というのが関わり、十界 ✕ 十界 ✕ 十如 ✕ 三世間に展開されるのが、一念=人の心であり、それが一念三千という思想なのです。

 ここらか何が言えるのか。

 一人の心の動き(境涯)ですら、それはとても奥深く複雑な事なのですが、それは個人(五陰世間)に留まらず、社会(衆生世間)へ、そして社会のある土地(国土世間)という広がりを持って事象は展開されていくという事を示しています。
 創価学会の池田大作氏は、この事について「一人の偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」(小説・人間革命 抜粋)と述べていますが、この捉え方は少し間違えています。一人ひとりの心(一念)は、その個人の姿や行動に現れてきますが、その個人が多く集まった時の社会(衆生世間)というのは、単純にその一念が広く波及するという事にはなりません。むしろ様々な人々が社会の中で関わる事で、本人の意図しない姿を現す事を、この「衆生世間」という事で表現をしています。例えて言えば「万華鏡」の様なものでしょうか。

 日本の諺には「三人寄れば文殊の知恵」という言葉と「三人寄れば鰯の頭」という二つのものがあります。例え頭が明晰な人達が三人集まったとして、それが素晴らしい智慧を生む事もあれば、むしろ人として考えられない愚行を起こす事もあります。社会とはまさにそういった代物であり、例えお釈迦様が一人、悟りを得たとしても人類の持つ「業」というのは、釈迦が亡くなってから三千年近く過ぎた現在でも変わる事がありません。人々は未だに我執に囚われ、利益を求めて争い、地球環境すら壊し続けています。これは今の時代の国土世間の姿ですね。

 こういった視点を得た時に、私は少し考えてしまいました。

 今の世界は「狂乱の世界」と言っても良いでしょう。世界各国では様々な問題が噴出しています。エネルギー問題、環境問題、民族問題、経済問題などなど。数え上げたらきりがありません。
 振り返ってみて日本はどうなのかと言えば、日本の国も相当狂い始めています。私が子供の時代、いまは「昭和世代」と呼ばれてしまっていますが、昭和の時代にも確かに様々な問題はありましたが、社会の姿は今の時代よりは、もう少しまともであったと思います。私なんかは創価学会で「希望の二十一世紀」と教えられて来ましたが、いざ蓋が空いてみて四半世紀を過ぎた現在、これほどおかしな社会になるとは考えもしませんでした。

 一人ひとりが成長すれば、この社会はより平和で安全な社会になる。

 私は創価学会の中で、仏教を基に教えられた事はそんな事でした。でも改めてその肝心たる「一念三千」を学び直してみた時、人の心(一念)とは、そんな単純な代物ではない事を、この年齢になって漸く理解し始めたのです。であればこの時代に生を受けた身として、この今生きている人生をどの様に捉えていくべきなのか、そこに最近、自分自身の生き方の重心を置く事にしています。
 「X(旧ツィッター)」を見ると、今の日本社会には様々な怨嗟や猜疑心、そして瞋りに溢れています。この今の日本の有様を見ていれば、少しでも心ある人であればそういった言動を吐きだしてしまうでしょう。しかし結局、それは自分自身の人生にとっては何らプラス(付加価値を得る)事にはなりません。むしろそんな社会の中で、自分自身が今生きているという現実を、どの様に理解し、日々生きてそこからどの様な経験を得るのか。そこに重点を置くべきなのではありませんか?

 人間社会の動きとは、かなり複雑怪奇なものであり、そこに体は翻弄されたとしても、自分自身の心(一念)まで翻弄されてしまっては、とても勿体ない生き方になってしまうと思うのです。

 最近の私はこの様に考えています。


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