いまの世界は大きな変革期に来ていて、これは大きく見ると人類社会のあり方が大きく変わろうとしている様に私は感じています。またこれは何も社会的な変化に留まる事ではなく、地球環境も大きな変化期に入っています。これは近年の「地球温暖化」という事で、多くの人も感じているのでは無いでしょうか。
私が思うに、この人類社会は表向きの国際政治に見える動きとは別に、裏で動かしている人達は居ると思っています。まあ陰謀論の世界で云うイルミナティとか、フリーメイソンとか、要は報道されない「人類社会の幕間にいる人達」ですね。恐らくこのイルミナティというのも表組織なので、私達が関知できない社会の裏に、そういうグループがあってもおかしくないでしょう。
例えば2020年頃から始まった新型コロナのパンデミックにしても、ウクライナ紛争や台湾海峡を挟む危機、また近年のイスラエルの軍事行動についても、そのグループによるシナリオに基づいた「国際舞台」の出来事に過ぎないと、私は考えています。舞台での出来事なので、アクター(演者)によるアドリブ演技もあるでしょうし、それによる若干のタイムライン的なブレや、少し本筋とは異なる演技も出てくるとは思いますが、大枠はシナリオ通りに進んでいるのではないでしょうか。
確かに私もそうなんですが、この社会の事象として、私達の目の前に出てくる事象一つ一つに、どうしても感情は揺り動かされ、振り回されてしまいます。国内のクルド人問題、対中国への嫌悪感、日本国内の政治の稚拙さ等など。やもするとこれらの事柄に自身の感情が振り回されてしまい、気が付いたら人生の大事な時間を無為に過ごしてしまうでしょう。
しかしここで忘れてはならないのは、一体私達はなんの為にこの人生に産まれ、人間(じんかん)を生きているのかという事です。これは極めて形而的な事であり、多くの人が「この人生は単なる偶然な事」と捉え、「死んだら人生は終わり無となる」と信じている状況では、この観点が実はとても重要である事を理解出来ません。
実は今の人類にとって、そこが残念な事であり、ある意味悲劇的な事だと私は考えていますが、皆さんは如何思われていますか?
私はこの人生が終わったら、自分が露の様に消え去り無となって、あとは野となれ山となれで、全てが終わるなんて考えていません。恐らくこの人生が終わった後も、この自分を認識する機能というか感覚は続くであろうし、この私は次の人生(じんかん)を経験し続けていくと考えているのです。そしてこれは、私の場合、法華経如来寿量品に示される様な事であり、それは単に世間で言われる輪廻転生観とか、霊魂があってそれが永遠に続くという事でも無いと思っているのです。
心とは全く不可思議なものですからね。「もの」ではないか。
だからこの世界を理解する上で大事な事は、まず己自身を理解すべきだと考えています。それを無しに日々目の前に出てくる事象に右往左往していては、それこそ人生という自分にとっての重要な資源の無駄遣いに他なりませんからね。
仏教には「功徳」という言葉がありますが、これは何も得たいものが得られるとか、苦難から救われるとか言うものではなく、「六根清浄」という言葉で言われています。創価学会など自称仏教教団では、この功徳を「御利益」と同列と教えてしまい、その信徒たちはご利益欲しさに教団に上手く操られてしまっています。操られなくても、本来大事にすべき視点を見えなくされていますよね。
ここで言う「六根」とは「眼耳鼻舌肌」という感覚識に「意識」をプラスしたものを指しますが、要は自分自身を「諦かに知る事が出来る様になる」という事を六根清浄と呼び、それこそが功徳だというのが、仏教本来の考え方だと思います。
よく言う「御本尊様(日蓮の文字曼荼羅)助けてください」とか「阿弥陀如来を信じれば極楽に行ける」とか、兎に角目の前の苦しみから、仏や菩薩を信じれば救われるなんて事ではないのです。しかし国内の仏教寺院で説かれる仏教は、そんな教えに堕しています。だから仏教宗派は衰退しているのかもしれません。
ちょっと話が横道に逸れてしまいました。
だからいま、この変化期にある世界を知る上で、その中で翻弄されている自分を、まずは理解するという事がとても大事な事ではないでしょうか。地球環境や社会がどの様な混乱の様子を現してきても、そこで生きる自分自身はそこで何を感じて、何を経験し、そして人間(じんかん)として何を学ぶべきなのか。そこが問われる時代になっていると、私は考えているのです。
私自身、そこの観点だけはブラさずに、今の社会について観ていきたいと思います。