できればテレワークしたいと思ってますが、やはり職場に行かなければ出来ないこともあるので、満員の通勤電車で出勤しています。でもオフピークで私の時間は若干空いたのかな?しかし出来れば人混みは避けたいところです。何たって咳やクシャミ、あと鼻水すする音や、不気味に赤ら顔で汗ふくオッサンなと、危険と思える人達が沢山居ますからね。
さて、私が活動から離れた時、よく学会活動家から聞かれたのは「お題目は上げているか?」「勤行はしっかりやっているか?」と言う事でした。要は創価学会の中で「自行」という自身が取り組む修行はしっかりやっているんだよな?という事を確認したかったのでしょう。
創価学会(これは日蓮正宗系はそうですが)では「自行」と「化他行」に取り組む事が信仰だと教えています。
自行とは先にも説明しましたが、自分自身だけで取り組む事、これは勤行や唱題を言います。化他行とは、この教えを人に語る事で、具体的には折伏(しゃくふく)と呼ぶ行為、まあ簡単に言えば新規会員の獲得です。それ以外にも聖教新聞の拡販や、選挙の時の集票活動なんかも化他行なんだと創価学会では教えています。
そしてこれは明確に明文化されていませんが、化他行が修行のうちでは最重要課題、自行については大前提なのであまり問われる事はありません。というか、全体的には自行を重要視していませんね、それより票集めや新聞拡販、また新規会員の獲得さえすれば、それで良いという雰囲気が会内には蔓延しています。
幹部が問われるのは、担当組織のそういう「化他行」の結果の数字だけですからね。
恐らく私に「勤行」とか「唱題」とかを聞いてくるのは、主要な化他行を行わないというても、せめて自行は行っているよな、と言う様な感覚で質問をしてきていると思うのです。
いやいや、実際にこの自行や化他行の事実や真実を理解すると、そんな事にこだわり、時間を割くことがバカらしくなります。
まず自行について。勤行とは妙法蓮華経方便品第二の始めの部分(十如是まで)と妙法蓮華経如来寿量品第十六の自我偈からを読みます。昔は二座の時には如来寿量品の長行から読みましたが、ここ二十年近くは簡略化して長行は省いて行っています。
そもそも経典を読誦するという事は、どういった意味があるのか。それについて日蓮の「木絵二像開眼事」という御書には以下の文があります。
「木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり」
この御書では木絵二像と呼んでいますが、絵画で書いた仏菩薩、もしくは仏像の前に経典を置く事の意味について、述べています。つまり仏の姿をいくら精工に表したとしても、その姿には「梵音声」という仏の相が欠けていると言いうのです。つまり仏が法を声を出して説くという姿です。そしてこれを補完する為に木絵二像の前に経典を置くという事を言っています。つまり仏の説いた経典を置く事で、その経典と仏像により、生身の仏と同等になると言うのです。
そもそも勤行とは出家者の行ったものです、よく「五座・三座」と勤行では言っていましたが、これはそもそも僧侶たちが場所(座)を変えて経典を読誦し、唱題した事から「座」と呼んだのです。
そして僧侶は何故「読経」をしたのかと言えば、仏像等の前で読経をする事で、仏の説法姿を表現していたという事が出来ます。
つまり「勤行」とは「仏の説法の表現」から始まったと考えてもよいでしょう。
創価学会では「勤行」を教えるのに、それをまるで「呪術」の様に教え、経典を読む事やお題目を唱えるというのは「マントラ(呪文)」を唱える様に教えています。私が何故この様に言うかといえば、法華経の方便品と読経しようが、如来寿量品を読経しようが、その経典の意味について教える事はありませんし、意味は理解しなくても「電気の仕組みを知らなくてもスイッチを入れれば明るくなる電気と同じ」として、ひたすら読経し唱える事の重要性を教えています。
これは果たして正しい事だったのでしょうか。
先の仏像と経典の関係、そして僧侶が経典を読むという事の意義。そこを考えると、実は読経するにはその経典の意義をしっかりと理解させるべきかもしれませんし、場合によっては音読ではなく、日本語訳を読ませても良いのかもしれません。
いや、、そもそも読経という行為もいるのかどうか、そういう事を検討しても良いかもしれないとすら、私は考えたりするのです。
また唱題行についてもどうなのか。
唱えるお題目について、過去に池田会長はユーディー・メニューイン氏との対談の中で「音律」という事に言及しました。要は唱題する際のリズムや音律に意味があるという事を言いたかったのかもしれません。
しかしここで考えなければならない事は、鎌倉時代の言葉の発音と、現代の言葉の発音というのは、異なる事は周知の事実です。であれば鎌倉時代に日蓮は「南無妙法蓮華経」という事を、どの様に発音していたのか、どの様なリズムで、どういった抑揚をつけて読んでいたのか、その事を知らなくてはならないはずです。
しかしこういった事については、創価学会においても言及していません。
私は人にとって「祈り」とは、とても重要な事というのは理解しています。
しかしここで気を付けなければいけないのは、人が祈る事でその事を成就させるという能力を潜在的に持ち合わせている事であり、これは人の善悪に関係なく発動する能力だと考えています。
この「祈り」と「祈る事の成就」、そして宗教の「祈り」とは、少し分けて考える必要があるのではないでしょうか。
何故ならば、こういった事で宗教というのは、人を隷属させてきた歴史というのは人類史の中には多くあります。でも人は宗教に隷属する為に生まれてきたわけではありません。
お題目についても、よくよく考えてみるべき時に来ているのではありませんか?