仕事にはスペシャリスト(専門職)とゼネラリスト(総合職)がありますが、私はまごうことなきスペシャリスト系です。今の業務に取り組み間もなく二十年。部長や課長よりも長いので、私の仕事には殆ど管理職は口出しをして来ません。つまり自分の仕事は自分で回すという事になってます。今日の出勤も、関連部と調整して自分で決めました。
派遣社員と言うと、低賃金で格差業務と言われます。まあ確かにそんな側面もありますが、結論は一人ひとりの仕事に対する取り組みという事もあると思いますよ。
さて今日は仏教という宗教で言われたりする「正しさ」について、少し考えを書いてみます。
まあ宗教として「正しい」とか「正統性」に強い拘りを持っているのは、日蓮系で富士門流に多くあります。代表的なのが創価学会であり、日蓮正宗、またそれに関連していた宗教組織ですね。
今はもうやらなくなっている様ですが、私が男子部時代には、法華講や妙観講、顕正会にあと寺の所化等と、アチラコチラで対論という、どちらが正しい宗教なのかという「鍔迫り合い」を良くやっていました。おかげで地元地域の法華講や顕正会には名前まで覚えられる始末。でもそれが当時は誇らしく思っていました。
「お前が創価学会の斎藤か!」
こんな言葉を幾度言われた事でしょうか。当時の私は創価学会こそ正統性のある宗教だと信じ切っていましたからね。
でもそんな創価学会で壮年部となり、新聞営業(啓蒙)や選挙活動で、地元の先輩幹部とやり合ってしまいました。結果として「お前いらね!」と言われ、活動を止めたのですが、おかげで仏教について少し勉強する事が出来ました。
ザクッと言えば、日蓮の教えの基礎は天台教学です。これは間違いないでしょう。殆どの用語は天台教学からきてますからね。
日興師が天台教学を学ぶ前に、しっかりと日蓮の教えを心肝に染めろと言ったのも、もしかしたらそれだけ相似している事から、やもするとその天台教学が本流だと勘違いする危険性を感じていたからかもしれません。
基礎は天台教学だが、そこに日蓮独自の解釈があり、それの結実した一つの形が「文字曼荼羅」では無いでしょうか。あとは「事の一念三千」と言いますが、要を言えば実践の中で一念三千という法門に肉薄するという考え方でしょう。日蓮は社会に対する諌暁という「折伏」を通し、そこで体験した事により法華経の精神に肉薄したと述べています。
日蓮の生涯とは、時の鎌倉幕府や仏教界との闘争でした。そして彼は自身の主張こそが釈迦直説の教えであり、正しい事を主張し続けました。だから彼の門下が自分達の主張の正しさを主張するのは、謂わば師匠と同じであり、結果としては教団分裂をより熾烈にしたのかもしれません。
この仏教の正統性について。そもそもですが釈迦を起点としたときに、今ある多くの仏典の中に、釈迦の直説というのは存在するのか。
例えば釈迦の説法とは、常に対告衆とも言いますが、目の前に悩み苦しむ相手が居た訳です。そして釈迦はその人を見つめ、相手の苦しみの背景を洞察しながら最適な教えを説いていきました。そしてその教えを釈迦の弟子たちは間近に見聞きしていました。
だから釈迦滅後、その教えを絶やしてはならないと多くの仏弟子達が集まり、経典結集という、教えの編纂作業に取り組んたのです。
「如是我聞(この様に私は聞いた)」で各教典が始まるのも、この為だと言いますが、要は仏弟子は対機説法で、ある人に説かれた言葉から、普遍的な要素を取り出して経典としてまとめた訳です。これはつまり、既にこの段階において、経典は釈迦の直説ではなく、仏弟子達が理解した要素に変換されているのです。
それが良いとか悪いとか、そういう事ではありません。まずはファクトとして語っています。
また日蓮の教学は天台教学を基礎としている事は先に述べましたが、天台大師は「小釈迦」とも呼ばれた、中国仏教界のスーパースターでした。彼が体系づくりに利用した経典の中に、無量義経というのがあります。かれはこの経典を法華経の開経に位置づけ、そこにある「四十余年・未顯真実」と言う言葉をバネに法華経の正統性を裏付けしました。つまり法華経以前の教えは真実ではない。そういう事です。
でも実はこの無量義経には当初から多くのミソが付けられました。一番のミソは、この経典にはサンスクリット語原典が存在しないという事です。
法華経三部経で法華経と観音経にはサンスクリット語原典が存在するのですが、無量義経だけには存在しないんですね。
ここから私が類推したのは、恐らく天台大師は、自身が多くの経典を学び、理解した体系に、当時存在してた経典を、それぞれ位置づけ、理解した教えを経典を利用してまとめたのでしょう。要は天台教学とは天台大師が理解した仏教という事だと思っています。
まあ理屈が難しいので、天台大師とは余程の秀才肌だったのかもしれませんね。
私は宗教の正統性には、一切興味がありません。教えは一つでも百人の門下が居れば、百通りの解釈が存在します。それら解釈のどれが正しくどれが間違いなのか、そんな尺度に拘る事にどんな意義があるのでしょうか。
大事な事は、先人の教えから自分の人生の上にどんな意義を見つけていけるのか。そこだけだと最近は考えているのです。
仏教には執着を断ち切るという言葉がありますが、仏教の正統性論理には、そこに新たな執着を生み出す事になるのではありませんかね?
まあこんな事を言っても、反論する人はいるでしょう。この世界には正しい教えがあると。でもそんな拘りが果たして有限の時間である人生にとって、果たして有用な事なのか、少しは思いを巡らしてほしいものです。