ここ数週間、仕事で神経すり減らす事が多く、ブログ記事の更新も滞り気味でしたが、漸く仕事も落ち着き始めたので、昨日からチマチマと書き始めています。仕事が忙しくても、様々な事を考えていたりして、思う所を書かせてもらいます。
6月11日に国会で改正国民投票法改正案が可決され、安倍内閣の時に言われていた憲法改正に向けて、日本は進み始めたように思えます。今の自民党は新型コロナを契機にして危機管理のため、また自衛隊を憲法に明記するという名目で、憲法改正を進めたいようですが、憲法とは国の基本法であり、そこには国の在り方が書かれる法律です。果たして今の状態で改正を進めることが、今の日本にとって必要なのか、またそれが国民の為になるのか、そこは国民の中で大いに議論をしなければなりません。
◆改憲議論の認識
他人はどうか解りませんが、私個人の今回の改憲に対する認識を少し書いてみますと、今の憲法は建前上「太平洋戦争」に対する反省の上から制定された平和憲法であると思っています。この憲法には基本的人権の尊重、三権分立。そして戦争の放棄が謳われており、この憲法があったからこそ、私達やその上の団塊の世代あたりは戦争を知らずに生きてこれました。
しかし太平洋戦争に日本が敗戦し、この憲法制定までの動きを見てみると、やはりどうしてもGHQ(連合国司令部)にいたマッカーサー元帥の意向が強く反映された節もあったりしますが、何より当時の世界では帝国主義から民主主義に移行をし始めた時代でしたが、当時の日本指導部には、その民主主義という事への認識も乏しかった事もあって、マッカーサーの理想が理解出来ない人が多かった。その様な中で今の憲法は制定された様にも思えます。
また太平洋戦争の時代とは、第二次世界大戦の時代でもあり、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)と連合国(イギリス、アメリカ、フランス、ソビエト等)とに世界が割れて大戦争となっていましたので、やはり世界的には厭戦気分もあって、そこにマッカーサー元帥の理想も入り、戦争放棄という条項が入り込んだのかもしれません。(日本の牙を抜くという意味もあった様にも思えますが)
この事から日本国憲法には「戦争放棄」という、世界には類を見ない条項が組み込まれ、結果として日本には「軍」というものが置かれなくなりました。
またもう一つの「危機管理」について。昨年からの新型コロナによるパンデミックでも話題になりましたが、憲法と危機管理については東日本大震災の時から、憲法調査会というところで話題となりました。
「危機管理と人権保障が究極においては対立するものではないということを明示するなりしませんと、新たな危機管理法を作るということ自体が非常に難しいですし、作ったとしても動かしにくいというところがあると思います。この種の問題については、とりわけ憲法と法律を一体的に整備するという発想が必要かつ有益ではないかと考えるものでございます。」
(櫻井参考人発言)
「、この生命、自由、幸福追求というものは、従来、ややもすれば全体で一つのものというふうにとらえられてきました。一言で幸福追求権などと呼ばれてきたわけでございます。(中略)生命、自由及び幸福追求と三つ並んでおるこの三つの間に優先順位を付けていく。(中略)まずもって生命だ、そのための自由の制約、あるいは個人のこの場合の幸福追求というのは例えばライフスタイルといった自己決定ということになりますけれども、こうしたものは劣後するというふうに優先順位を憲法自身が意識していると読み替えることはできないかというふうに考えておるんです」
(棟居参考人発言)
これらの発言を勘案するに、簡単に言えば国家の危機状況においては、生命・自由・幸福の追求という人の持つ権利について、現在の憲法では順列が付けられていないので、その順列をしっかり憲法で定め、その元の危機管理の法律を制定すべきであるという議論の様です。
簡単に言えば国が国家の安全を守るための行動を取る為に、個人の権利を制限する法整備が必要。だから今回の憲法改正では、そのあたりの内容を議論して改正しようという事なのでしょう。
◆国家の安全保障について
この様に考えてみると、今回の憲法改正の議論では「自衛隊の憲法への明記」「緊急事態対応など4項目」という事を、菅総理は言っていますが、共に「国家の安全保障」についての議論という、その首題は一つのものだと私は思えるのです。
ただ問題は、今の日本国民の中に「国家」とはどの様なモノなのか。という最も基本的な理解が欠如している状況の中で、一部の改憲思想家や組織の思惑が主体となり動いている様な状況が、果たして許されて良い事なのでしょうか。そこから考えると、私には今の日本の中でかなり拙速な議論しか為されていない状況でもあり、これはとても危険な事で将来に禍根を残す事だと思うのです。
例えば「国家」とはどの様な存在なのか。私は法律論や社会論などには疎いので、大雑把な言い方でしか言えませんが、国家は国民の為に存在する組織体なのか、それとも国家という組織体を存続させる為に国民はあるのか。その認識ですら今の日本では議論が為されていないと思うのです。本来はこの様な議論が為されている中で、憲法改正の議論が進められるべきだと思うのですが、そういった議論は一切為されていないばかりか、国民の大半はあまりにもこの憲法改正の議論について無関心過ぎていると感じています。
だからネット上を見ても、例えば「自衛隊の憲法明記」というのが、果たして今の自衛隊を「軍組織」として定めるのか、それとも今の様な「国家公務員による軍装備を持った組織」のままにするのか、そこが見えませんし、そもそも自衛隊に対する議論についても、あまりにも稚拙な議論しか交わされていません。
もっと根本的に言えば、人類社会というのは「国家」という組織が単位となり構成されていますが、現実としてこの人類社会では国家間に於ける「殺人行為」とも言う戦争行為が公に認められた社会であるという現実。また国家間では未だ「軍」を背景にしたパワーゲームが行われているという現実にも、多くの日本人は無関心な様に思えるのです。
「他国に侵略されたとしても、戦争をしなければ殺されずに済むから良い。」
その様な言葉もありますが、それでは他国にもし侵略されたとして、そこで差別的な扱いや自由の制限、経済的な締め付けなどがあり、いまの日本社会の中で享受している自由を制限されたとしても、そんな言葉を言う人達はそれを甘受できるのでしょうか?
もっと穿った極論を言えば、他国の徴兵制で徴用され、そこで他国の為に日本人が戦争に行く事を強要された場合、その発言をする人達はそれをも甘受できるのですか?
いまだ世界には、この国家の自主独立の基盤がぜい弱な為に、個人の権利すた守られずに不自由な生活を受けたり、また国家がなく流浪の民族がいるのですが、こういった事をどの様に考えるのでしょうか。
もっと穿った極論を言えば、他国の徴兵制で徴用され、そこで他国の為に日本人が戦争に行く事を強要された場合、その発言をする人達はそれをも甘受できるのですか?
いまだ世界には、この国家の自主独立の基盤がぜい弱な為に、個人の権利すた守られずに不自由な生活を受けたり、また国家がなく流浪の民族がいるのですが、こういった事をどの様に考えるのでしょうか。
人類社会が成熟していれば良いのですが、今の人類は未だそこまで成熟しているとは思いません。そうであればやはり人類社会の中で、自分たちの生存権を確保する為の「国家」とは何なのか。そこをもう一度、日本人として考えてみる必要があると思うのです。
また緊急事態条項について。
法律が幾ら整ったとしても、その法律を運用するのは政治家であり官僚ですが。特に政治家の劣化については、ここ一年以上継続している新型コロナのパンデミックに対する日本政府や政治家の言動を見れば、対応できる能力を持つ人物が居ないのが一目瞭然では無いでしょうか。その能力を持たない政治家が、いったいどのような「緊急事態条項」を定め、その法律を以て緊急事態に対応できると言うのか、私は甚だ疑問を持っています。
◆議論できる素地を醸成すべき
日本という国家の歴史を振り返ってみると、明治期にはとにかく大急ぎで近代国家の構築を急ぎ作り、たまたま日清・日露戦争では「勝利」という形を明治の元勲達の努力で勝ち取る事ができ、しかも国際的に「五大国」という存在に急速に上り詰めた結果、特に軍部を中心とした驕り高ぶりがあり何も学ばずに結果として太平洋戦争で国が一度滅びました。
その段階で日本人として、明治期以降の日本で何が問題であったのかを、反省し学ぶ機会があれば良かったのですが、墨塗り教科書を急ぎ作り子供に教え、GHQ主導の東京裁判を受け入れ「戦争犯罪者」に責任押し付け叩き出し、単純に太平洋戦争前の日本人社会は悪かったという様なGHQ受け売りの考え方を飲み込み、ある意味で経済発展優先で戦後七十年の間来てしまいました。
だから今回の憲法改正の議論に合わせて、もう一度、この議論の根本的な事について日本人の一人でも多くが理解する中で、考えてみる機会であれば良いのですが、今の政府の拙速な進み方を見てみると、どうも進め方が間違えている気がしてならないのです。
まあ何より一番の問題は、国民全体がこの事について、あまりに無関心であるという事なんですけどね。