私は創価学会という宗教を四半世紀以上に渡って関与してきました。もう今は組織から離れ、活動も一切していません。そんな私がXで創価学会で経験した事について、この年齢になりそこで感じた事や考えた事を呟くと、何やら「デマだ」「嘘をつくな」なんて事を言われてしまいます。
まあそんな事言うなとは言いません。何故なら発言する事は自由な訳ですから、その事を云々する事は出来ないでしょう。ただ思うのはデマや嘘つき扱いするなら、それ相応の証跡というものをしっかりと示してほしいものです。
私は未来部の時から関係していましたし、青年部時代にはそれなりの立場で活動もしてきました。それこそ自分の時間の大半を創価学会の活動に費やし、会員のためなら、なりふり構わず活動をやってきました。これは決して大袈裟なことではなく命懸けでやってきましたが、その結果、辿り着いたのが今の状況なのです。
だから私の呟いた事をデマ扱いするのであれば、その反証として明確な証跡を示す事が最低限の礼儀というものではありませんか?
またデマや嘘つき扱いする人は、恐らく私ほど創価学会に関与もしておらず、適度な良い距離感をもって創価学会に関わっている人なんでしょう、けして組織の内情について詳しく知る立場ではないからこそ、その様な発言ができるのだと思いますよ。
まあ、そんな事は脇に置いといて。
そんな私がこの年齢になって思う事なんですが、宗教とは人類にとって必要なのでしょうか。
ここで言う宗教とは「人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」(参照、Wikipedia[宗教])の事で、いわば「社会集団」としての組織を備えたものを言います。
人と言うのはやはり自然に対する畏敬、また自分自身の人生を振り返り感じる自分の意識ではどうにもならない出来事、また魔訶不識な出来ごとなどから多くのの人は「信仰」に近い事を感じるものでしょう。
「宗教を持たないものは、道徳心を持たないに等しい」
この様に見られるのは日本国内ではなく、海外に行けば当然だと聞いた事があります。これは創価学会の中だけではなく、私が一時期共に会社をやっていた先輩からも言われた事があります。現に海外ホテルでは「宗教」をチェックイン時に記入する欄があると言われていましたし、私も海外に行った時にそれは見た事があります。
人の道徳心や個の確立の為に「信仰」というのは確かに必要でしょう。そしてその信仰を醸成するために宗教は一時期必要となる事もあるでしょう。しかしその宗教に「個人」が縛られ絆される必要はないと思うのです。
宗教とは「社会的集団」である以上、そこには組織的なヒエラルキーが存在します。ヒエラルキーが存在する以上、そこには必ず「権威」や「権力」というのも発生してしまいます。しかし「道徳心や個の確立のため」の宗教であっても、そこに「権威」や「権力」というのは発生しているのであれば、そこは本末転倒であると言っても良いでしょう。
世界の歴史を見ても、宗教の美名のもとに聖職者や権力者が結託して人々を抑圧し、搾取してきた例は枚挙にいとまがありません。宗教の下であれば人は幾らにも進んで身を捧げ、善良な人ほど残虐にもなってしまいます。現在、日本国内では創価学会という宗教が自公政権のもとで、自分達の会員を権力者に売り渡し政争の具にしています。しかし会員自体がその事に微塵の疑念すらもたず、進んで政治的に隷属しています。そしてその点を会員に指摘をすると、先の様に「デマだ!」「嘘をつくな!」とヒステリックになってしまいます。
人類、今の文明が出来てから数千年、そろそろ「宗教」を捨て去り独立すべきではないでしょうか。
思うに宗教とは人類の意識の中に「DNAレベル」で組み込まれている脆弱性なのかもしれません。たとえて言うとパソコンで言えば、BIOS(Basic Input Output System:基幹ソフトウェア)レベルに組み込まれている、まるで「トロイの木馬」の様なものでしょう。
そしてそれを乗り越えるためにはやはり「宗教の本質」という事を理解し、過去から現在に至るまでの人類史の中で、この宗教が私達人類にどの様に影響を及ぼしてきたのかを理解する必要があります。また併せて「自分自身の心」という事について正確に認識すると共に、自分自身の人生に対する「意義」という事を正確に理解する必要があります。
だたこれを具体的にやるとしたら、そこはやはり「教育」のレベルでの対応が必要なんでしょう。せめて小学生のレベルの子供たちに宗教という事を、大人が冷静かつ正確に教育出来るという社会である事が必要です。
その場合、当然そういった社会の中に生きている大人の心の中には、現在の宗教というレベルではない信仰心を確立している必要があります。
いいですか?宗教ではなく信仰心をです。
己を律し、社会の道徳心を醸成できるだけの信仰心。これはある意味で言えば宇宙への畏怖の念であるかもしれませんし、その中で今を生きる自分自身を定義づけるだけの哲学観かもしれません。ただそういった信仰心を持っていれば、如何なる宗教的なヒエラルキーにも囚われる事なく、本当の意味で人は自由に生きていける様になるのではないでしょうか。
またこれを持てる様に人類社会がならない限り、文明のレベルも「次の段階」に進める事は難しい様に思うのです。
歴史を見れば、人類の惨劇の陰には必ず宗教は存在し、その時々の人類は常にこの宗教の隷属の下、操られてきてもいるのです。現在、人類の科学のテクノロジーは飛躍的に進歩しています。であればこそ、やはり「宗教からの卒業」は必須なのかもしれません。
ちょっと雲を掴むような、また奥歯にモノが挟まったような文書になってしまいましたが、一人でも多くの人に思惟して欲しいと願っています。