自燈明・法燈明の考察

永遠の生命について雑感

 今から一昨年前、当時の私は会社の健康診断で臓器に影があると言われ、早急に病院で再検査をと言われてしまい、近所の中堅病院を受診したとこと、そこから即、地域のガン専門の病院を紹介されてしまいました。

 ガンになるなんて思いもよらず、私自身少しパニック状態になっていました。そんなある時、家族で食事に行った時にスマホを覗くと、そこには「末期がんでも責任果たした男性の話」なんて言うのが美談の様に書かれている記事をみた時には、全身に脂汗がブワッと出てしまい、食事の味すら解らなくなりました。

 ガン専門の病院では、2カ月ほど様々な検査の為に通院し、結果は他に転移が見られない初期のガンという事で、1週間ほどの入院・手術で終わりました。でもガンはガンなので、それから半年に一回は地元の病院で定期的に検査する身となっています。今の段階では特に問題無いのですが、半年に一度は検査の度に、否応なく常に「自分の死」という事に向き合いながら今を行きています。

 そんな中で「自分の死」について、以前よりも深く考えるようになりましたね。日蓮も「浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」(妙心尼御前御返事)と述べていますが、当にこの病を得た事で、人生とは有限なものであり、今ある事がこの先も恒にあるものでは無い、何時かは終わりが来るものだと理解する事が出来ました。
 この「死」については、肉体的な苦痛もさることながら、家族との別離、そして何よりもこの世界から自分が消えゆくという事に納得が出来ませんでした。要は全て「我執」という事なのかもしれません。この事は日常生活の中では微塵も考えすらしない事でしたが、今回の病で私自身、気付かせてもらえたと思っています。

 さてここで、「死」という事について改めて考えてみると、結論として私は「死」というものは、実は存在しないのではないかと考え始めています。

 確かに一般的に言う処の「死」といのはあるでしょう。それは病や事故、または高齢に伴う肉体的な衰えもあるかもしれません。この世界で生きていく上で、この肉体に何かしら不具合が起きてしまい、生命活動を維持できなくなり、生きる事に不可逆点を超えてしまえば死亡します。しかし恐らく肉体は死亡しても、この私の心の活動と言うのは止む事は無いでしょう。これは多くの臨死体験者も語っている事ですが、医学的にこの肉体が死亡を宣告されても、心の働きが止むこと無いという証左でもあります。

 法華経の如来寿量品にも「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。」と説かれていますが、心の活動という視点から見たら、この死と言うものも「出る」とか「退く」というものではなく、一つの通過点にしか過ぎないのではないでしょうか。今の私の実感です。
 とは言いながら考えなければならないのは、この通過点となる死では、知人や身内、そして家族との別離は避けられない事ですし、この世界で数十年の間、生きてきた中で得てきた経験や地位、名誉や財産などあらゆるものは持っていく事は出来ません。唯一持っていけるとすれば、それは自身が体験した「経験」であり、それは記憶と言っても良いでしょう。あと学び得た知識という事もあるかもしれません。

 私は創価学会で仏教を少し学びましたが、そこでは「小乗仏教(原始仏教)」は大乗教よりも劣る教えだと聞きましたが、この死を通過する際に一番自分に苦悩をもたらすのは「我執」であり、この我執に気付きを与える教えの多くはこの小乗仏教の中にあったりします。つまり人間は死と言う「通過点」がある以上、この世界で得られる有形無形のものについて、強い執着を持ち続けては、それが死と言う「通過点」では強い苦しみとなり返ってきます。
 何も若い時からそんな事は気にしなくても良いかもしれませんが、やはりシニア世代になったら、そういう事は意識をしていく必要があるでしょう。その為にも私はこの「我執」を少しでも離れる事を意識する必要がある事を感じていますし、そこはまず日常生活の中で、意識をする事にしています。恐らくこう言う先に、近年言われている「終活」という事もあるかと思うのです。

 さて、では死後にも心の働きがあるとして、それはよく言う「霊魂」みたいな感じでフワフワと、どこかに存在するものなのでしょうか。
 先日亡くなった彗星研究家の木内鶴彦氏の「死後の体験」は、ここにとても興味深い視点を与えてくれます。彼の人の体験では、所謂「三途の川」を渡った後、気が付いたらベットの上に居たと言います。そしてそこで呼吸が止まった事もわかりましたが木内氏は苦しいとか感じなかったそうです。そして身を起こしてみると後ろに自分の肉体があったと言いますが、これはまるで体外離脱体験と同じですね。この後の木内氏の体験はかなり興味深いものでしたが、ここでは書ききれないのでYouTubeやネットをググって調べて欲しいのですが、それは単純な霊魂という様な経験ではありませんでした。
 またアメリカの脳外科医のアレクサンダー・エベン氏の体験では、死後に派この世界の成り立ちや様々な事が理解できたと言います。しかし人は己が経験してきた事しか言語化出来ないと言い、そこで知り得た事は容易に表現できない、この経験について今後も研究していくという話をしていました。

 このお二方の体験を読んで思ったのは、単なる霊魂みたいな個々が独立してフワフワと存在するものではなく、前に紹介した九識論の中に見える八識(阿頼耶識)や九識(阿摩羅識)のレベルまで融合しつつ、個が認識されていると言う様な状況にも思えたりします。チベット仏教の「生と死の書」では、心の奥底にある真理との出会いとも書かれていましたが、そういう事なのかもしれません。ただしこの事は最終的には死んで見なくてはわかりません。

 ただ思う事は、死とは通過点であり、そこが終着点でも終わりでもないという事だと言う事です。ただこの通過点は心の中に持ち合わせるもの以外、そこをくぐり持っていける物は無いという事でしょう。有形無形に関わらずです。そしてこの通過点を過ぎて次の生と死へと永遠に続いていくのか、そこは恐らく誰にもわかりません。ニール・ドナルド ウォルシュ氏の「神との対話」では、生死のサイクルの先に、何れ「神との融合(ここで言う神とは唯一絶対神ではありません)」という話もありましたが、それを体験した話は当然の事ないのです。

 この世界に生きている私達は、誰もがこの事(通過点としの死)を経験していくのですから、もう少し真面目に考えても良いのではありませんか?


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