自燈明・法燈明の考察

【閑話休題】私が信仰体験に意味ないと言うわけ

 閑話休題で少し別な話題を。
 私は最近、X(旧Twitter)を再開しました。止めたのは2022年10月でしたので2年ほど前です。当時、侮辱罪の事も話題に上っていましたが、実は当時、大病が発覚し治療に専念する必要もあり。精神的な負担も軽減したいという思いも実はありました。
 それから2年経過し、まだまだ完全に復帰という段階は無いのですがここまで順調に回復してきています。そもそもこのブログは継続していましたし、この2年間の間、創価学会というよりも日本の劣化もかなり進んでしまい、それを見ていてちょっと復活させる事にしました。

 まあ物好きなもんだと思ってやってください。

 ただ今後は教学的な事や世情的な事、また私がこの2年間の間思索してきた事を中心として、ちょっと呟きを進めていくつもりですので、お暇な方は今後もお付き合い頂ければ幸いです。

 そんなXですが、先日以下の呟きをしました。

 しかしそれに対して、こんなリツイートがされたのです。

 創価学会は仏教団体を標ぼうしていますが、どうも体験偏重になりすぎている事を私は最近強く感じています。これは以前にも書いた事なんですが、地元の壮年部幹部をしている後輩に「教学研鑽と政治や社会的な関心を持ち、取り組むべきでは」と提案した事がありました。当時、私はせめて支部幹部以上は意識を持つべきではないかと言った処、後輩からは「斎藤さん、今の創価学会は池田先生と功徳(御利益)の話しか聞かないんですよ」と嗜められたのです。

 よく言う「失われた三十年」の原因とは、政治的な事だと言われています。この「失われた三十年」の間、政権与党のど真ん中にいたのは公明党です。しかし公明党は過去に年金安心100年プランの失敗も反省していなければ、安保法制に於いても過去の自分達の主張を覆してきました。選挙で公約した事、また過去に主張してきた事を否定するのであれば、本来、民主主義の世界であれば、そんな政治家や政党は議席を奪う必要があります。しかし公明党は創価学会の信心の上で議席をある程度維持してきました。しかし恐らく組織的に限界が近くなってきたのでしょうか、先日の総選挙で過去に「池田先生と師弟直結」を謳っていた常勝関西の小選挙区全てで議席を落とし、比例代表の得票数も減少する事態になりました。しかしこの事態に至っても、中核になっている創価学会の活動家は事の本質に気付きもしません。私はここに「体験遍重の組織」という体質的な問題点を感じているのです。

 創価学会(実際には創価教育学会)の初代会長の牧口常三郎は、ある意味で独創的な仏法観を持っていました。

「故に本会に入会するに非らざれば、個々の生活の幸福安定は勿論得られませんし、延いては国家社会の安定性も得られないと私は確信して居ります。故に本学会の目的とする処は日本国民の一人でも多く本会に入会せしめて日蓮正宗の信仰を基礎とした私の価値論を認識把握せしめて、人生生活の安穏幸福を招来せしめるにありますが、価値論の教義的具体的指導理論は後で詳細に申上ます。」
「【検事・問】 会員獲得の手段方法に就ては。
 【牧口・答】 学会に入会せしむる手段方法と致しましては、本会に入会して信仰すれば現実に如何なる現象が生活面に直に現はれるかと言ふ事の実例を会員全体が夫々自分の知人縁故関係を辿って宣伝折伏するのであります。」
(特高月報:創価教育学会本部関係者の治安維持去違反事件検挙 抜粋)

 これは牧口会長が戦時中に特高警察から尋問を受けた際の記録にある言葉です。

 牧口会長は日蓮の立証安国論に感銘を受け、大正5年(1916年)に国柱会館に通っていました。この国柱会と接触は竹中労氏の「庶民烈伝-牧内常三郎の生きた時代」に記録されていますが、創価学会ではこの事を公式には認めていません。その後、牧口会長は三谷素啓という人物により案内され、まずは北山本門寺の門を叩いたが断られたの言います。これは恐らく牧口会長の独創的な考え方が受け入れられなかった事によるものかもしれませんが、後に大石寺に日蓮正宗に入信しました。

 牧口会長はその後、創価教育学会を設立し、「実験証明座談会」を活発に開催しましたが、これは先の特高月報にもある「会に入会するに非らざれば、個々の生活の幸福安定は勿論得られませんし、延いては国家社会の安定性も得られないと私は確信して居ります。」という主張に関しての実験証明という意味合いで開催をしていました。ここでいう「個々の生活の幸福安定」というのは、まさに創価学会の信仰体験重視の淵源がここにあったのでしょう。

 私は宗教上の信仰体験そのものを否定する気はありません。

 その宗教の持つ思想性やその教義の理解を深めるきっかけの一つとして、そこに信仰体験があっても良いかと思うのです。法華経に於いても仏は衆生を導くうえで様々な方便を巧みに使うという事も説かれていますので、理解を深めるきっかけとして信仰体験を得るのであれば、それは意味ある事だと考えています。
 私自身、四半世紀以上にわたり創価学会の信心をする中で、様々な信仰体験は得てきています。それこそ「何故?」「どうして?」というほど、一般的な理屈では考えられない体験は多く経験してきました。しかし私が若いころの創価学会では、体験も「方便」だと捉え「信行学」を深化させるものだと教わってきました。つまり信仰体験には必ず「教義」としての裏付けがあり、それゆえに学がより深化するものだと言う事なのです。

 では翻ってみて、創価学会の活動家は「功徳(ご利益)を得た」事で、果たしてどれだけ法華経の内容に肉薄できたというのでしょうか。日蓮は確かに「行学二道に励むべし」と言いました。そして創価学会の活動家は確かに学んではいますが、それはけして法華経の真意に沿うものではありません。何故なら創価学会の活動家の中で、法華経の真意に思いを凝らす人はどれだけいますか?

 法華経にはこの経典を信じたら「人生が良くなる」「幸福になる」なんて事は一言も書いていないのです。

 今の創価学会が会員に教えているのは、十界論で言えば「天界」を求めているのに過ぎないのです。良いですか、天界には三界あり、それぞれ欲界(肉体的な喜び)・色界(物質的な喜び)・無色界(精神的な喜び)がありますが、いずれも「天界は六衰を受く」とある様に、そんな喜びはいずれ消えていくものなのです。日蓮もこの事は婆羅門教(外道)の悟りとして戒めているではありませんか。

「此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上色無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし」

 私は四半世紀にわたり創価学会に関与してきましたが、その中で会合の壇上で声高に「大きな功徳を得られました~!」と言いながら、数年待たずに組織から消えていった人を多く見てきました。

 その事を考えてみたとき、私は「体験偏重の信仰」には限界があると感じているのです。そして法華経には、本来、そういった人たちを含めて包含しゆく思想性があると感じていますが、こと「信仰体験偏重」に陥っている人たちはそういった事に気づきもしていないのです。むしろ宗教組織に言われ信仰体験を重視する人たちの多くが、逆にその宗教組織に結果として「自発的」に利用されている姿が目につきます。

 とまあ、信仰体験に偏重する姿勢を持ったままでは、そこで得る信仰体験は自身の心を自縄自縛にしてしまうのですが、こういった事を書いた処で、先に紹介したツィートをする様な人たちには伝わる事は無いでしょう。

 解ってはいるんですけどね。

 ちょっと思うところを走り書きとして書いてみた次第です。


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