今日の朝は比較的に過ごしやすい陽気ですね、風も幾分涼しく感じます。今年も酷暑な夏でしたが、季節は移り替わっていっています。これからの季節は、酷暑のぶり返しもあるのでしょうが、台風に注意する必要もあるやに思います。無事に日々過ごせたら良いですね。
さて、昨日の報道番組で、新型コロナウィルスにより、40代で10歳の子供と32歳の奥さんを残し、亡くなられた方の事を特集していたようです。そしてそこで映った仏壇が創価学会の仏壇であった事が、多少、話題になっていました。
亡くなった御主人も、心残りであったろうなと思いましたが、この文字曼荼羅は「特別御形木御本尊」というやつで、幹部などに授与されている本尊ですね。もしかしたら、この御主人は創価学会の幹部であったのかもしれません。
ご冥福をお祈りすると共に、残されたご家族も精いっぱい生きて行って欲しいと思いました。
昔からテレビの報道の中で、創価学会の御本尊が映る事は度々ありました。有名どころでは小学校に侵入して生徒を殺傷した宅間守の自宅にも、当時、創価学会の御本尊が映りました。写真週刊誌では夜逃げの現場というのが過去に特集されていましたが、そこでも創価学会の御本尊が映っていました。
まあ昭和の時代から、これだけ御本尊(日蓮の文字曼荼羅)をバラまけば、犯罪者や犯罪被害者などにも、創価学会(名前だけを含む)の会員が居てもおかしくないでしょう。
こういった報道が為される度に、持ち上がる議論として次の様なものがあります。
・創価学会は絶対幸福の信心なんだろ?何故犯罪に巻き込まれるのか。
・祈りが叶うという信心なのに、何故、不幸な目にあうのか
まあ何時もこの様な議論というのは出てくるわけですが、こればかりは致し方無い事なのかもしれません。何故なら、創価学会が折伏という「新規会員の獲得」をする際、自分達が授与する御本尊がどれだけ凄いのか、様々な体験談(組織内で見聞きした事)を訴えます。
「祈りとして叶わざる無しの御本尊なんだ」
そして都合悪い事ですが、創価学会に入会して活動をする事で「信仰体験」というのが得られてしまう事が多々ありまして、そうなるとそれを経験した人は「創価学会の言う様に、この信心には力があるだ」という思い込みを持ってしまうんですね。
私にも幾つもこういった「信仰体験」はあります。
ちょっと落ち着いて考えれば、人類の歴史の中で様々な信仰や宗教というのがあり、それぞれに様々な「信仰体験」という事が存在する事が解るのですが、この様な体験を求める人、また経験する人の多くは特定の宗教にどっぷりと浸かってしまう事から、この「落ち着いて考える」というのが出来ない状況にあるのが大半なのです。
そして信仰体験を経験した人に対して、宗教団体などは、それこそが自分達の宗教の力であり、その力を発揮する事が出来るから、私達の宗教は間違いないんだと教えます。するとなによりも「経験」を体験している事から、教えられた人の中には「絶対に正しい信心なんだ」という思い込みが形成されてしまうので、宗教への依存心、信頼感は大きな事になるわけです。
だから信仰体験を持ち、信仰を妄信する人の論理というのは、得てして「自分達が正しい」「自分達の主張する事が正義だ」という前提で構築されているんですね。
さて、創価学会の場合の話をします。
創価学会でもこういった縮図は当たり前の様にあり、いま活動に励み、はまり込んでいる人の多く(特に地域の幹部クラス)が、何かしらの「信仰体験」を持っています。その信仰体験があるから創価学会は正しいとか、その指導者の池田会長は正しいという事を思い込んでしまう訳です。そしてこれは「強烈な思い込み」でもあるので、理論などで覆す事が出来なくなります。例え本人の中で多少の疑念が生まれたとしても、そこは「合理化」という心理が働くので、そういった疑念すら自分自身の中で独自の思い込みにより抑え込んでしまうのです。
そもそも、正しいという事と、信仰体験というのは別のレベルの話なのですが、そのあたりの整理が為されていないというのが、ほとんどの人達ではないでしょうか。
日蓮の場合、「立正安国論」という事を著作しましたが、つねに仏教の中で「正法」という事に拘ってきました。しかし日蓮はこの「正しさ」という事と信仰体験は切り離して考えていました。
「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」
(唱法華題目抄)
日蓮の時代においても、バラモン教の仙人がとんでもない信仰に基づく力を示した事が伝承として伝わっていました。しかし日蓮はどの様な信仰の力を見せつけようと、それは一切関係なく、法が正しいか間違っているかは「法門」をもって糺すべきだと主張していたのです。
要は「信仰体験」という情緒的・感覚的な事に、日蓮は法の正邪の基準を求めていなかったのです。宗教の正邪と、信仰体験の有無や質の良し悪しは別な事だと主張しているのです。
つまるところ、たとえ日蓮の教えを信じていようが、不幸になる人もあるだろうし、幸福になる人もいるでしょう。本来はそこは問うべき処ではないのです。また日蓮を信じる人であっても、単に「信仰体験」だけで信じるのではなく、日蓮が語る様に「法門」によって理性的に判別するべきであり、もっともっと他者の話にも耳を傾けるべきなのです。
ちなみにこれは大石寺の法華講でも同様ですね。
創価学会の授与する本尊を「偽本尊」と言いますが、その根拠の第一義は創価学会の会員に発生する不幸を根拠にしています。でもそれは日蓮の言葉とは違う思考である事を理解すべきなのです。
日蓮と日蓮信徒の間には、こういった差異があるんですね。