自燈明・法燈明の考察

創価学会会員は「布施を止めよ」

 このブログで創価学会について、久しぶりに語りたいと思います。今までの経験からすると、こういう記事を書いてもアクセス数はあがりません。それこそ創価学会の組織の裏話等は結構アクセス数は上がりますが、こと教学的な内容については、皆さんあまり興味が無いようです。

 私の語り口も問題ありなのかなぁ。

 今回は昨今の日本社会の状況を鑑みて、立正安国論の語り口から、少しこの情勢について切り込んでみたいと思います。確か以前にもこの類の記事は書きましたが、改めて書いてみたいと思いますので、宜しくお願いします。

◆日蓮が指摘したかった事

 日蓮の生涯の化導は立正安国論に始まり、立正安国論に終わると言われています。日蓮が武蔵国池上邸(現在の東京都大田区の池上本門寺)で臨終の際、最後に講義したのも立正安国論と言われています。それほど重要なこの立正安国論で、日蓮は何を弟子達に言い残したかったのでしょうか。

 日蓮が立正安国論を最明寺入道時頼(前執権、北条時頼)に提出したのは文応二年(西暦1261年)七月でした。この立正安国論では簡単に言えば三災七難を示す中で「自界叛逆難」「他国侵逼難」の二難が未だに現れていない事を指摘し、このままいけば必ず二難は出現する。だから国に正を立てる事で、安寧に導く努力をすべきであると諫言しています。

 こういった事から、この立正安国論を「預言の書」であると言い、日蓮をさも預言者の如く捉える風潮というのが強くあります。また日蓮が「正を立て」という事を述べた事から、自分の宗派を国が重用する事を述べた「排他主義者」だと言い、排他的な独善主義者であるというレッテルを貼られてしまっています。しかし立正安国論を読めば解りますが、日蓮は天平より続く鎮護国家の仏法の観点から、法華経を中心に据えた仏教の再確立を主張しているのであって、けして自らの教えを大事にしろという話はしていないのです。

 またこの立正安国論では、法然房源空の念仏宗を日蓮は徹底して批判をしています。これについて日蓮宗系では「現実逃避の念仏を、先ずは破折したのだ!」なんていう説がもっともらしく語られたりしていますが、これも実は大きな間違いです。日蓮が何故、法然房源空の念仏宗を攻撃したのか、そこには当時の鎌倉仏教界の事を理解しなければならないのです。

◆鎌倉仏教界の姿

 鎌倉幕府は、今で言えば「文化政策の一環」として京都から多くの僧侶を鎌倉に招聘し、その為の大寺院を次々と建立しました。そこには初めて坂東(関東)に出来た武家政権で、その中心地の鎌倉を京都に負けない文化都市にしようという方針がありました。この大寺院の建立は現代で言えば「公共工事」にあたります。だからそこには多くの雇用を生み出しますが、利権も生まれてきます。日蓮が立正安国論を認めたのは正嘉の大地震がきっかけとなったと言いますが、社会が天災に覆われている中でも大寺院建立は続けられました。

 当時の鎌倉仏教界で、実力者となっていたのは忍性房良観でした。彼は日蓮の迫害を陰から画策していた人物です。この良観を鎌倉仏教界の中心者に押し上げたのは、実は当時の念仏宗の僧侶たちだったのです。これについては別の機会にまとめてみたいと思いますが、日蓮が立正安国論を認めて、そこで徹底して念仏宗を責めたてたという事の背景には、鎌倉仏教界の利権構造や、内輪の権力闘争が関係していたと思うのです。要は法を持って国を鎮護すべき仏教僧たちが、そんな事をやっている場合なのかという想い。
 要は多くの人達が立正安国論の冒頭に描かれている様な、悲惨な状況の中で喘いでいるにも関わらず、鎌倉幕府としては大寺院建立を止める事もなく、そこに多くの仏教僧が利権を持って絡んでいる。そしてその仏教僧の宗派の中で力を持っていたのは念仏宗であった。そこで日蓮は法然の念仏宗について徹底的に責めてる事で、それをもって幕府が推し進めている仏教政策の間違いを指摘した。

 そういったものが、立正安国論ではないかと私は考えているのです。

 当然、こういた行動は幕府の政策に対する痛烈な批判でもあるので、幕府の中では快く思わない人物もいて、日蓮に対して迫害を加えてきます。

 当時、鎌倉幕府の中で、仏教政策を担当していた人物は北条重時(極楽寺重時)です。極楽寺とは忍性房良観の寺院であった事から、良観との繫がりも強かった事が伺えます。こうして日蓮への迫害は始まったのではないでしょうか。

◆日蓮法難の姿

 日蓮の御書を読んでも、日蓮宗派の講義を聞いても、日蓮の迫害というのは法華経を信じたが故の迫害だとあります。しかし本当にそれだけなのでしょうか。

 日蓮が生涯で受けた初めての法難。これは「松葉が谷の法難」ですが、立正安国論を提出した後、当時、幕府は黙殺したのかという感じに無反応でした。提出したのは文応二年(1261年)七月十六日でしたが、それから一ヵ月半後の八月二十七日に松葉が谷の草庵が多くの人達により襲撃されました。この襲撃した人達ですが、最近の研究では鎌倉大仏の建立に携わっていた仏師や関係者たちだと言われています。鎌倉大仏は建長四年(1252年)から銅造の大仏の建造が始まっていましたので、大仏建立に携わる人達を「日蓮という僧が大仏建立に異を唱えている」と僧侶などから煽られた結果なのかもしれません。お前たちの仕事が無くなってしまうぞ、なんて言われたのかもしれません。

 また小松原の法難で、安房の小松原で地頭の東条景信に襲撃されたものですが、この襲撃にしても、各種伝記では立宗宣言の説法で恨みを持った地頭の東条景信が、安房の国に帰省していた事を聞きつけ襲撃したと言われています。しかし実はこの小松原の法難の淵源にあったのは、領家の尼(荘園主)と東条景信(地頭)の間にあった土地争いで、地頭の東条景信は鎌倉幕府の権威を背景に横車を通し、土地を奪おうとしていましたが、領家の尼と繋がりのあった日蓮が弁護して問注所に訴えを起こし、東条景信の横車を退けたという事だと言われています。そしてその恨みから日蓮を亡き者にしようとしたのが小松原の法難だと言われています。

 こうしてみると、実は日蓮は「リアリスト」としての側面を持ち、各種の法難の背景には、日蓮の行動が単なる「反・利権行動」と既得権益者から見られてしまい、結果として迫害が起きたという事が見えて来るのです。

◆考えなければならない事

 こういった視点で日蓮を見直してみると、日蓮の教えを奉じているという創価学会の会員達も、リアリストとしての視点を持つ必要があるのではないでしょうか。

 聴く処では昨今(2024年9月現在)、自民党は総裁選挙で「空騒ぎ」を演じていますが、その中で語られる政策は実にメチャクチャです。にも拘わらず自民党の友党を語る公明党の支援者たちは、その自民党総裁選に見える自民党の「狂いよう」とも言える公約みたいな発言内容には見向きもせずに、とにかく「広宣流布なんだ」という事で、この選挙に加担し、自公連立政権の維持の為に活動を始めようとしています。

 今年の夏は例年にない酷暑が続いていて、日本各地にも様々な災害が起きています。経済状況についてはOECD(経済協力開発機構)の加盟国の中で、GDPは下位ランキングの中に入り、もはや日本は発展途上国と言われています。カナダの経済学者が言いましたが、日本人は勤勉で真面目に仕事に取り組んでいるのに、何故ここにきて経済がこれほどまで低迷しているのか。その原因は無能な政治に責任があるという様な発言をしていました。

 この日本の凋落の原因には、自公政権が無関係であるはずがありません。二十年以上に渡り政権与党に居続けていた結果が今の日本なのです。そうであれば創価学会の会員も、公明党や自民党の支援を止めて、一旦、自民党や公明党は下野させるべきであり、600万票を持っていればそれが可能なはずです。

 つまるところ、創価学会会員は、創価学会の中央の指導部の指示に安易に従うのではなく、個々に今の社会の状況を鑑みて、それぞれが政治を考えて投票をすべきであり、それは「布施を止めよ」と立正安国論の中で日蓮が主張した事に基づく現代に即した行動になるのではありませんか?

 日蓮は仏教僧でありますが、リアリストな側面を持つ人物でした。日蓮を信奉するというのであれば、「功徳(御利益)が貰える」という事で、政治に参画するのは大きな間違いだと私は思えてならないのです。


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