自燈明・法燈明の考察

いまこそ法華経の思想が必要な時

 また緊急事態宣言が出ました。前回の安倍総理の頃は、世の中も緊張感が高く、街中から人の動きは激減しました。しかし今回はというと、街中の人の動きは若干減少しても、社会の中に以前ほど緊張感は無い様に思います。

 新型コロナウィルスの感染者について、前回の緊急事態宣言の時には、身近にはあまり耳にしたことがなかったのですが、今回は、仕事場の知人、娘のアルバイト先の社員、また嫁の勤務先の同僚など、前回の緊急事態宣言の時よりも、周囲には発生している様に私自身は思います。

 これだけ感染事例が目立ってきていますが、ネットの世界では「新型コロナウィルスはインフルエンザウィルスよりも弱毒性だ」「大した事ではない」という話を耳にします。確かに私の周囲を見てみると死者は出ていません。しかし臭覚障害や味覚障害などの後遺症は幾つか耳にしていますし、やはりあまり舐めた対応は控えるべきであり、「正しく怖がる」という姿勢がとても重要な事ではないかと思います。

 街中を散歩して思うのが、やたらマスクをしている人を多く見ます。例えば森の中や、人込みでも無い閑静な街中でもマスクをして歩くのは、さすがにやりすぎでは無いかと思うのですが、いかがでしょうか。インフルエンザや風邪の感染対策に準じた意識で、無用に人込みには行かない、同じ場所での会食や会合は極力抑止するという事でも十分だと思います。あともし感染した場合の対応については、やはり政治の世界ではしっかり検討して欲しいものですが、今の日本の政治の向かっている方向は、実に変な方向だと思うのです。



 世界各国の、この新型コロナウィルスの対応を見ていると、社会自体が「サイトカイン・ストーム」を起こしていて、本来は正常に機能できる仕組みをも「感染症の恐怖」から、人間が自ら破壊しているやにも見えたりします。もしかしたらこの新型コロナウィルスというのは、個人に対する感染症による問題もそうですが、社会の仕組みに対して打撃を与えるウィルスなのかもしれません。

 こういう時に、人間にとって必要な事は、やはり法華経の思想なのではないかなと、最近の私は個人的に思ったりしています。これは創価学会や日蓮正宗といった宗教団体が主張している「広宣流布」とは別物なんですけどね。

 前置きは長くなりましたが、その法華経の思想という事について、私なりの解釈をちょっと書いてみたいと思います。

◆法華経の思想
 天台大師は法華経の思想について「法華玄義」の中では以下の言葉で示しています。

 「法華折伏・破権門理(法華は折伏にして権門の理を破す)」

 こういった言葉は日蓮も御書の随所で取り上げ、その事から日蓮の述べた法門とは「折伏」が中心なんだと日蓮を信じる人達は語っています。創価学会や法華講などでは、この「折伏」を相手の意見を完全否定して、罵詈雑言の議論でマウントする事だと理解してしまっている様で、直ぐに不毛な議論へと進んでしまいます。

 しかし「法華折伏」という事は何を指すかと言えば、法華経以外の大乗仏教から論理だてて組み上げ理解する教義(帰納法的な思考により考えられるもの)では無いという事を指しているのではないでしょうか。そしてそこで示された教えとは「破権門理」とある様に、法華経以外の大乗仏教の教えとも異なる事を指しているのかもしれません。

 日蓮はこの事について、開目抄で述べています。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」

 ここでは如来寿量品で久遠実成を顕して始成正覚(菩提樹の下で瞑想して成仏した)という事を否定した事により、法華経以外で述べられた成仏という考え方(四教の果)も崩されたと言い、この成仏と言う考え方を崩されたという事は、その成仏の為の修行(四教の因)をも崩したという事だと日蓮は述べています。そしてその先に「本門の十界の因果(本来の心の形、成仏やその為の修行)」を顕していると言うのです。

 では日蓮の言う「本門の十界の因果」とは何なのでしょうか、またそれが久遠実成と、いったいどの様に関係しているのでしょうか。そこにこそ、法華経の思想の核心があると思うのです。

◆久遠実成が顕した事
 このブログでは過去の記事でも幾度か書いていますが、再度その事について書いてみます。

 法華経の久遠実成では、釈迦は今世で出家して、菩提樹の下で悟りを得たとう事ではなく、五百塵点劫という数学的には表現できない大昔に、既に成仏していたと明かします。まずこれによって、大乗仏教で語られていた「長い時間修行をして得た境涯が成仏」という概念を破壊しています。何故なら、久遠実成とは時間の概念を離れた処で既に成仏をしていたという事だからです。ただし久遠実成はこれを破壊しただけでは収まりません。

 五百塵点劫の昔に成仏した釈迦は、それ以降、様々な仏の姿としてこの世界に常に出現し、そこで常に法を説いてきたと明かします。例えて言うなら「燃燈仏」という仏も、そういった久遠実成の釈迦の姿であったと明かしています。これにより大乗仏教で説かれているすべての仏とは「久遠実成の釈迦」がこの世界に現れてきた姿であり、つまるところすべての大乗仏教の教えとは、法華経から派生したものであるという事になりました。

 また久遠実成の釈迦とは、単に様々な仏の「根源仏」に留まる事ではなく、仏に教えを乞う人達もその姿であった事と説きます。これは先の「燃燈仏」に教えを請い願い、「あなたは来世に釈迦という仏になる」と言われた人が、この娑婆世界に応誕した釈迦であるという事がジャータカ伝説で言われていて、始成正覚の釈迦も久遠実成の釈迦である事が、この逸話からも読み取れます。

 つまりこの世界の全ての存在が、「久遠実成の釈迦」を根源とした姿であるという事を説き明かしたのが「法華経の思想」という事だと、私は理解しています。そうなると「成仏」とか「その成仏の為の修行」という事も、自ずと変わらざるを得ない事であり、その事を日蓮は開目抄で述べたのではないでしょうか。

◆分断の思想ではなく、相互理解の思想
 この法華経の観点から考えるなら、私達は「自分」とか「他者」という様に分断して考えるべき存在ではない事になります。例えばこの文書を書いている私も、読んでいる貴方も、共に「久遠実成の釈迦」がこの世界の応誕した存在であるという事だとすれば、そこに「対決」だとか「自他」という分断の考え方ではなく、必要な事は共に共通の存在であり、そこに違いがあったとしても、それを「理解」し「受容」するという観点なのです。

 以前の記事にも書きましたが、2018年にAI(人工知能)の専門家であるベルナルド・カストラップ博士が、人間の「意識」の問題を解決する上で提唱した「宇宙は解離性同一性障害(多重人格)で、我々はその人格の1つ」という説がありました。ここでは本来、宇宙とは一つの意識であったものが、解離性同一性障害(多重人格)の様に分裂して個々の意識が派生したという理論です。ここでいう「一つ宇宙の人格」を法華経の説く「久遠実成の釈尊」として、そこから分裂した意識が、個々の人格の意識であるという観点で考えると、もう少し解り易くなるかもしれません。

 解離性同一性障害(多重人格)では、一つの自我からいくつの人格が分裂して一人の人の上に現れます。これは「24人のビリー・ミリガン」ですね。そして分裂した人格にはそれぞれの思考と記憶が個別に備わります。この分裂して出来た自我が、もし肉体を傷つければ、結果としてその人(主人格や他の人格)も傷つき死んでしまうかもしれません。主人格とは別人格であったとしても、依って生きる肉体は共通なのですから、そういう事になります。

 これと同様に、今の人類社会に必要なのは、「自分」「貴方」「あいつ」と分断した思考なのではなく、ともに共通の心の基盤の上に依って成り立っている共通な存在だという事の認識であり、その為に私達はどの様に考えて生きて行くべきなのか。そこに重点を置く必要があるのではないでしょうか。

 つまり「相互理解の思想」であり「自分と他者、そして生きて行く環境」という事について、より本質的な理解を深める事こそが、今の時代では必要なのではないかと思うのです。

 昨年は新型コロナウィルスにかき回された一年間でした。本年は果たしてどの様な一年になるのか、全く予測が出来ません。しかし世界をいま席捲しているのは、エゴと分断の思想の様に思えますし、そこに対して一大転換を求められている様に思えてならないのです。

 そしてその事について、大事な示唆を含んでいるのが法華経という経典なのかもしれませんね。

クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思う事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事