前の記事では永遠の生命について、いま考えている事を書かせてもらいました。一点、自分の書いた考察へのコメントですが、「生命」というのは妥当な表現ではなく、これは「心(精神活動)」とした方が、より今の私の考えている事に近いかと思うので、ここにコメントしておきます。
今回は少し輪廻転生という事について書いてみたいと思います。
仏教では輪廻転生について説いていると言いますが、この輪廻転生の淵源は婆羅門教にその原型を見ることが出来ます。まず理解しなければならないのは、生まれては死んで、死んではまた生まれてくるというこの輪廻転生の考え方は、そもそも古代インドで既にいわれていた事なのです。また解脱と呼び、この輪廻転生の軛(くびき)から逃れる事を解脱と呼ぶのも婆羅門教にはあった様です。
近年になり、この輪廻転生については「前世の記憶を持つ子供たち」という事も話題になっています。そこでは子供たちが前世の記憶を語り、前世の死に際の様子についても細かく語っていたりします。一部の子供たちはその死に際の記憶がトラウマになるレベルで回想されてもいました。
またその前世の記憶の一部では、過去に実在した人であった事も確認され、まさにこの輪廻転生を裏付ける証言にもなっています。
しかし興味深いのは、この前世の記憶というのは子供が大人に成長していく過程で薄れて行くようで、成人すると殆どの子供たちが、記憶を思い出せなくなっていくようです。
単純に考えてみると、こういった事象により輪廻転生は確実に有ると言われています。私もこの様な事例を拝見して、確かに輪廻転生というのは有るのだろうと以前は考えていましたが、最近になって少しこの考え方を変えているのです。
まず大乗仏教の唯識派の考え方では、自我というのは阿頼耶識を錯誤している事から生じていると言われています。具体的に九識論をもって説明すると、意識で自我を認識する際、その根源とは末那識(七識)にあると言われていますが、この末那識は阿頼耶識による記憶で錯誤した事だと言うのです。
また近年、アカシックレコードという事が言われています。これは人類の記憶の集合体とも言われていて、それは宇宙大にも広がっているとも言いますが、これは仏教でいう阿頼耶識にとても近しい概念です。そしてこのアカシックレコードというのは、個々で完全に独立している仕組みではなく、個人の記憶であろうと他者もアクセス出来るという事のようです。ここから考えてみると、阿頼耶識という記憶のレベルでは、個々が明確に区分けされているものではなく、個人と他者の境界というのが実に曖昧な部分があるという事です。もしそれぞれの記憶が他者と厳密に区分けされ、他者はけして個人の記憶にアクセスできないという事であれば、このアカシックレコードにある様な、他者がその記憶にアクセスする事は出来ないでしょう。
よく「霊能力者」という人たちがいますが、その中には初対面の人の住環境や家族構成、また過去の状態から現在置かれている状況を、初対面にも関わらず的確に言い当てる人がいます。これは中々怪しい話にも聞こえますが、私の知人の中にはその類の人というのがいました。実際にこれを目の当たりにすると。は中々不可思議な事なのですが、もしかしたらこういった人たちは、その対面した人の心の中にある記憶領域にアクセスできる人なのかもしれません。要は霊能力と呼んでいますが、相手の記憶にアクセスして様々な事を言い当てているのかもしれません。
そこから考えてみると、実は前世を語る子供たちや、そういった過去世の記憶を持つ人というのは、実はこういった他者の記憶にアクセスしている、もしくはそういった他者の記憶の影響を受けていて、あたかも自分が経験したような状況になっているという事は考えられないんでしょうか。
九識論においては末那識が阿頼耶識に刻まれている記憶をもとに「自我」を錯誤しているという事であれば、この前世記憶を語るという事は、確かにその人格の一部があたかも「生まれ変わり」の様に、この世界に表出している様に見えますが、もしかしたらそれがその前世の自我そのものなんだという事にはならないかもしれません。要は主人格に他者の記憶の一部が混入してきてしまい起きている事象という事もあるのではないでしょうか。
私は法華経の思想に触れて考えてみたのですが、そもそもこの世界にいる人たちというのは、心の根源には同じ心の本質(阿摩羅識=九識心王真如の都)を持ち合わせており、その上でそれぞれが「自我=エゴ」が阿頼耶識に記録されている記憶(業)による錯誤で生起しているものであれば、実は各個人が完全に自他彼此と感じ「個として独立」しているという事ではなく、実は同じ心の本質が異なる記憶の投影として存在しているという事であれば、輪廻転生という考え方についても、単にそれぞれの自我が生まれては死んで、死んでは生まれ変わってくるというものでは無いと思うのです。
そもそもこの世界、明確に区分けされて出来ているものではありません。性別にしても男性と女性の境界線もグラデーションの様に緩やかな区分があります。男性と女性の性別の間には両性具備の性があるのは周知の事実です。物質同士にしても極微の世界で見れば極めてあいまいな線引きになっています。また生物と物質、仏教で言えば有情と非情の線引きについても明確な区分けをする事が出来ません。こういった事と同様に自分と他者の人格の境界線ついても、細かく見て行けば実に曖昧な区分けしかないかもしれません。
ちょっと入り組み難しい話になってしまいましたが、皆さんはこういった事について如何思いますか?