自燈明・法燈明の考察

胸中の肉団にある御本尊

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 GWになりましたが、ひたすら家で大人しくする、これが今年のスタイルとなっています。近所のスーパーも家族で一人だけ来店して下さいとなっていたり、子供達の入学も9月からという意見も出ていたり。やはり新コロナウイルスの流行は、この世界の様々な形を変えてしまうのかもしれませんね。

 さて今回は日蓮の認めた文字曼荼羅(御本尊)について少し書いてみます。

 創価学会でいま配布(授与)しているのは栃木県浄圓寺所蔵だった、堅樹院日寛師の本尊です。以前は阿部日顕師の文字曼荼羅か、細井日達師の文字曼荼羅。一部は顕樹院日寛師(浄圓寺とは別モノ)のモノでした。

 第二次宗門問題以降に、創価学会では「第六天魔王の日顕が書写したものは無くす」「気持ち悪いだろう」「だから正師の日寛師の御本尊を授与する」と、既に文字曼荼羅を持っている世帯についても「お取り替え(交換)」を進めたのです。当時の私は男子部で本部長でしたが、この御本尊お取替えで末端組織は静かに混乱をしていました。それは、今までの主張していた創価学会の本尊観と、やろうとしているお取り替えの理屈が合わないからでした。
 当時の私は「あくまでも希望者に限る事で、拒否する人に対しては無理に替えなくても良い」としていましたが、区や県からは常に「今週の交換数を報告しろ」とか「どんどん進めろ!日顕の御本尊なんて気持ち悪いだろう!」という方針でした。

 今から考えたら、とても馬鹿らしい事ですが、要は文字曼荼羅(御本尊)の意義とか本義を理解できていない幹部が多かったという事、そして創価学会の会員にもそういう人が多く居たという事です。この事については大石寺信徒についても同じなんだろうと思いますね。



 日蓮が文字曼荼羅について書いている御書に「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」と「日女御前御返事」があります。文字曼荼羅の意義や相藐については観心本尊抄にありますが、意義について解りやすい言葉は日女御前御返事にあります。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」
(日女御前御返事)

 この日女御前御返事に書かれているのは「この御本尊を余所(自分より他の場所)」にあると思ってはならないというのです。いまある文字曼荼羅の議論の多くは「偽本尊」とか「本モノの本尊」という事で、創価学会が授与している文字曼荼羅の真偽の議論ばかりで、これは当に「余所にある」という事の議論なので、もうこの時点で日蓮の考えている文字曼荼羅の話とは異なっているのです。

 では日蓮が考えた御本尊とはどこにあるのか、それは「私達が法華経を持って御題目を唱える人の胸の中、この体の中に居る」と言っています。つまり自身の中に、この日蓮の顕した文字曼荼羅(御本尊)はあるのだと言うのです。そしてこの文字曼荼羅は何を表しているのか、という事ですが、それは「九識心王真如の都」というものなんだと言うのです。

 この部分を読むと、日蓮が文字曼荼羅で顕したのは、一人ひとりの心の中にある「九識心王真如の都」の姿である事が解ります。つまり日蓮も己心の中にあるものを書き写したという事であって、その姿を「模写」したものなんです。だから現存する124体の文字曼荼羅の相藐も、年代や時期によって変化をしているという事なのでしょう。

 宗門では「御法主上人猊下様のご内証を書き写した」と言っていますが、結局「御内証」とは言っても、後代の貫首が日蓮の文字曼荼羅を理解した内容で、要は日蓮が「模写」したものの「模写」をしているという事なのです。

 御義口伝(上)には以下の御文があります。

「故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し」

 法華経では虚空会として表現されていましたが、それを「九識」の姿と日蓮が理解していたという事が、この文言で理解できますが、この「九識」とは万人に具わるものであると考えるべきであり、けして「題目を唱える」とか「文字曼荼羅を受持する」という事で差が在る訳ではないのです。簡単に言えば、イスラム教徒の中にもありますし、パプアニューギニアのジャングル奥地で原始生活をしている人の心の中にも、当然具わっています。

 日蓮が法華経の中にあった虚空会を、自身の中でどの様に体得したのか、そこは解りません。ただ日蓮は鎌倉時代の日本の仏教僧で、法華経を信じるという立場から文字曼荼羅としてこの九識を表現したのが、この文字曼荼羅です。人が何かを表現するという事を考えた場合、その人も持つ経験や文化的な背景に基づいた記憶等から、認識や体得したものは表現されます。

 これは一つの仮定ですが、キリスト教文化を持つ人が、この自分の心の中にある「九識心王真如の都」を体得し、図で表現したら、どの様な表現をするのでしょうか。

 恐らく「神の姿」とか「光り輝く存在」とか、場合によっては「天使」という言葉を使ったのかもしれません。

 この様な事を、つらつらと考えてみた場合、日蓮の文字曼荼羅のみ執着し、そこに「本物だ」とか「ニセモノだ」なんて議論をしている事自体が、とてもくだらない議論に私は思えてしまいます。ましてやそんな文字曼荼羅という「紙片」によって、人生の幸不幸が関係しているという認識も、どうなんでしょうかね。

 あくまでも一人ひとりの内面の中にある「心象世界」をどの様に理解し、その「心象世界」と、日々生活する現実世界がどの様にリンクしているのか。そしてそれが人生でどの様な意味があるのか、本当はそういう処に目を凝らさなければならないのではないか。

 私は日蓮の文字曼荼羅(御本尊)の議論を見るたびに、そんな事を考えていたりします。



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コメント一覧

斉藤 単己
コメントありがとうございます。
曼荼羅は撮影禁止となっていますが、弘安二年の大曼荼羅も既に写真で過去に公開されていますし、そもそも撮影禁止という事が是であれば、創価学会として本尊流布ももう少し厳格でしかるべきであったと思います。
既に曼荼羅撮影禁止は、形骸化したものだと私は思っていますので、掲載しています。
教学についても、本来なら大石寺の教学(日寛教学)から見直しも必要でしょう。あまりに日蓮の本義とは違う内容があり、彼の教学の基本は中古天台(天台宗恵心流)の臭みが強すぎます。
どこかでお会いできると良いのですが、私は首都圏近傍なので、難しいですよね。
まあ一方的な事を書いてしまいましたが、これからもよろしくお願いします。
池田輝美
こんにちは。福岡県の創価学会員です。不躾ながら、会館等はテレビカメラ等で曼荼羅は撮影禁止となっています。ブログであっても撮影し、掲載するのは控えた方が宜しいかと思われます。
草創期の大先輩方は、小さな事まで教えて下さいました。私達世代も教学を学習し直し頑張らなければと思う日々です。
お疲れ様です。どこかでお会い出来ると大変嬉しいです。
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