創価学会や顕正会など、いわゆる日蓮正宗関係から派生した宗教団体に縁した人達は、何かと「真実の教え」とか「正しい教え」という事に拘ります。
かくいう私も昔はこの拘りがありましたし、それを信じて顕正会や法華講との対論も行っていました。しかし活動から離れた現在から振り返ってみると、この「真実の教え」とか「正しい教え」というのは創価学会には存在していない事が、よく理解できる様になりました。
◆正しいという背景
創価学会や日蓮正宗が、自分達の教えが正しいという根拠は、「教相判釈」に拠っています。教相判釈とは教義などを比較対称する事を言いますが、具体的には「五重の相対」という事で日蓮正宗や創価学会で教えていて、それぞれの比較によって優劣を判別する理論です。概要についてここで少し振り返ってみます。
①内外相対
ここでは内道(仏教の教え)と外道(仏教以外の教え)を比較しています。外道としては婆羅門の教えや儒教、道教を比較し、儒教や道教は物事の道理や礼節、婆羅門では輪廻転生観は持ってるが、ともに生死の因果の道理を弁えていないから外道は劣っているとして排除し、仏教が生死の因果を弁えている分、優れていると判釈しています。
②大小相対
今度は仏教においての判釈です。仏教には大乗経典と小乗経典があり、その二つを比較して、小乗経典は最高位を阿羅漢(声聞)と定めているから個人の救済を求めているから劣っているし、釈迦の本意ではないと退け、多くの人達に仏性が具わると説く大乗経典が優れていると判釈しています。
③権実相対
大乗経典でも権経(法華経以外)と実経(法華経)があり、この二つを比較し、法華経は開経である無量義経において「四十余年・未顯真実」とある様に、釈迦の本意の経典であり、それ以前は仮の教え(権経)であるとしています。この事から法華経が優れていると判釈しています。
④本迹相対
法華経にも迹門(従地涌出品第十五まで)と本門(如来寿量品第十六以降)があり、釈迦の本意は久遠実成を明かした以降の部分なので、本門が優れていると判釈しています。
⑤種脱相対
本門でも釈迦仏法の解釈によればそれは脱熟(だっちゃく)仏法であり、末法の時代は日蓮が説く下種仏法で無くてはならないとして、その下種仏法を持つ日蓮正宗の教えこそ最高の教えであるとしています。
これが五重の相対のあらましですが、ここで言う「④権実相対」までは天台大師の教相判釈であり、「⑤種脱相対」は日蓮正宗独自の解釈で、その根源は堅樹院日寛師の教学に依っているのです。
近年(2014年)では、創価学会は会則改正に伴う教義改正によって、この日寛師の教学については見直しすると公言していましたが、いまだ見直しは為されていません。だから創価学会にしてみたら、すでに五重の相対による教相判釈はかなぐり捨てて、独自の主張で自分達は正しいという主張をしているのでしょう。
まあ簡単に言えば「御本尊様(文字曼荼羅)に御題目を唱えてたくさん功徳(御利益)もらってるから正しいやん!」という処なんでしょう。でもそれでは今まで主張してきた三証(文証・理証・現証)のうちで現証だけで、他の二症は不要と宣言したようなものではありませんか?
それでは一貫性に掛けているので、何をもって「学会正義」というのか、示して欲しいところです。
◆破綻している教相判釈
さて、この天台大師の教相判釈を元にした五重の相対ですが、当たり前の事、現代では既に破綻している論理と言っても良いでしょう。
1つ目に内道と外道ですが、外道といっても現在ではキリスト教やイスラム教、ユダヤ教といった宗教もあります。これは天台大師や日蓮の住んでいた時代と比較して世界観が広がっている事から、これらの宗教も入っていきますが、これらは一神教であり、単純に仏教と比較相対できるモノではありません。安易に大石寺関係では「いやいや、彼らは外道だから」なんて言いますが、それでは実際にかれらヤソ教(一神教)を破折(はしゃく)出来るかといえば、信仰やその文化がまるで異なる事から対話にすら漕ぎ着ける事が出来ません。そもそも発生した民族の文化すら異なるモノを、単に二者択一で判別できるモノだと考える事自体が増上慢でもあるのです。
2つ目ですが、この教相判釈は主に教義の比較対比によるものですが、教義とは文字でまとめられた内容です。しかし文字というのは、それを読み、解釈する側で意味合いが全く異なる事があるのです。
具体的には仏教を信仰する人達の中で、どれだけ仏教の本意を理解している人がいるでしょうか。例えば「厄除け」や「病気平癒」を祈り、それぞれの仏像に御利益を求める信仰は、すでに「内道」ではなくなっています。これは創価学会や日蓮正宗の信仰でも同じことが言えます。「偽本尊」や「信心の血脈」なんて言葉を言いますが、この比較で取り上げられるのは「功徳(御利益)の有無」の比較対象でしかありません。
「創価学会の本尊(文字曼荼羅)に祈ったら仏罰で不幸になる」
「日蓮正宗の本尊(文字曼荼羅)には血脈が無いから功徳は無い」
このいずれにしても「功徳(御利益)」の比較対称でしかない事を、なぜ仏教を信奉しているという彼らは、気付かないのでしょうか。彼らのいう「罰」「功徳」というのは、仏教の本義から見れば自分自身の内面の問題に由来する事であり、けして文字曼荼羅や他人が受け継ぐ「血脈」なんて外因性の問題ではないはずなのに、それすら気付かなくなっています。
「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり」(曾谷入道殿御返事)
ここでは同じものであっても、見る人の心の状況によっては、それぞれ異なるものに見えてしまうという事を日蓮も述べています。つまりいくら経典が「正しい」と言っても、解釈する側によってはその「正しい」という本意を読み取る事が出来ないという事なのです。
そもそも近年になり、法華経自体が釈迦滅後五百年を経て成立した経典である事が判明し、その法華経を「未顕真実」と呼んだ無量義経という経典も、原本としてサンスクリット語が存在しない不明な経典である事が判明しています。その点を鑑みても、天台大師の教相判釈はすでに破たんしている事が理解出来ると言うものです。
「真実の教え」「正しい教え」を求め、自分自身が行っている宗教やその信仰が「正しいんだ!」と思い込みたい気持ちは解ります。でも大事な事は、その宗教や信仰によって、自分自身の物事の見方、人生の捉え方がどのように「より良く開けたのか」を問うべきであり、社会集団としての宗教にこだわるべきでは無いのです。
私はそう考えています。