そんな中で、苫米地英人氏訳の「CIA洗脳実験室」(著、ハービーMウィンスタイン)を読み始めてますが、これを読んでいる中で、ふと記憶とか意識について考えてみた事を、少し書いてみます。
皆さんは記憶とか意識という事について、考えた事はありますか?
まあ普通に生活している中、そんな訳わからない事を考える人なんて居ませんよね。私も常にそんな事を考えて生きている訳ではありません。
ただふと思ったのが、例えば私の場合、古い記憶の中には、当時住んでいた近所の原っぱの中で、倒れそうになってる物干し台を必死に支えている自分を、母親が笑顔で見ながらカメラを構えていた、というのがあります。この時の写真はありますが、確か三歳位であったと思います。
「意識」というのは、もともとは仏教の言葉で、天台大師智顗の言う「九識論」で言えば六識にあたります。要は五識(眼・耳・鼻・舌・肌)から来た情報をもとに、自分の置かれている状況を認識する心の働きです。一般的にはこれを心処として自我だと言われていますが、天台大師の論に拠れば、これら情報を統率した意識をもとに「自分」を感じるのは末那識(七識)と言います。
さて、ここからちょっと入り組んだ話になりますが、お付き合いください。
先に紹介した、原っぱで倒れそうな物干し台を支えていた三歳児の時の「私」と、いまこのブログを書いている「私」は、果たして同じ「私」という存在なのでしょうか?
「何を馬鹿な、どうしちゃったの、狂ったのか?」
そう思われるかもしれませんが、もしかしたら違う意識の私がそれぞれにあり、意識自体は別なものかもしれない。私は、ふとそんな事を考えたのです。
ここでこの三歳当時の「私」と、今の「私」を統一しているモノは何なのかを考えてみると、それは「記憶」だと言うことが解ります。何故なら、今の「私」が当時の「私」を自分だと認識しているのも、その当時の記憶があればこそであり、そこから私自身の一貫性を信じているからです。
仏教の唯識派と言われる宗派、例えば法相宗では心王(自分自身の本質)を阿頼耶識(八識)としているのは、恐らくこういう事からかもしれませんね。
阿頼耶識とは、過去遠々刧からの業(行い)を集積する心の働きを指していると言いますが、これを現代流に表現すれば、それは即ち記憶と言うことになります。先の自我の本体である末那識(七識)の奥底に阿頼耶識(八識)が置かれているのも、そういう意義があるのかと思います。
これが意識(自分自身の心)と記憶の関係性だと思うのですが、実は天台大師は更に意識の本質として阿摩羅識(九識)というのを提唱しています。鎌倉時代の仏教僧である日蓮はこれを「九識心王真如の都」と呼び、法華経如来寿量品で説かれている、久遠実成の釈尊とも言っています。
これはつまり、阿頼耶識に蓄積される「業(行い)」を作り出す、より心の根源の存在という事であり、その存在は生死流転の時の流れを超えて、人の心の奥底深くにあるものであって、そこでは単に「私」とか「貴方」とか「他」という、日常の中で私達が認識している分断を超えたモノなのかもしれません。そしてそれは近年、欧米の深層心理で言われている「神」とか「大我」に通じたものかもしれません。
ちょっと今回はややこしい話をしてしまいましたね。