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親バカですいません。娘の入選作を学校美術展へこっそり一人で見にいきました。何やら気恥ずかしくてそこそこで退散しました。
と言う訳でアートにちなんだお題に(無理やり)もっていきましょう。
【遊歩のススメ】No.04
舞踏とは自らの肉体と出会うことだ 〔土方 巽〕
遊歩もまさしくそうありたいものです。
■新ブログ・文人たちに見る〝遊歩〟
・解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
・何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
●〝歩き〟に特化した新しいブログを作りました。ぜひ、お立ち寄りくださいませ。
親バカですいません。娘の入選作を学校美術展へこっそり一人で見にいきました。何やら気恥ずかしくてそこそこで退散しました。
と言う訳でアートにちなんだお題に(無理やり)もっていきましょう。
【遊歩のススメ】No.04
■遊歩は「アート」そのものなのだ! スポーツとしての遊歩に始まって、冒険、禅と進んできましたが、今回はアートという切り口で「遊歩」を見てみましょう。 「パフォーマンス」という言葉、最近では、今では生活用語ですが、本来は一つの先鋭的な芸術思潮で60年~70年アメリカのアーティストを中心に流行しました。簡単に言えば「アートとは作品そのものでなく、作品にいたるまでの行為こそアートなのだ」と言うことです。 初期の遊歩仲間には、私を含めモダンダンスをやっていたメンバーが数人いたこともあって、「歩き」をダンス表現の一つとして考えてみようという試みがありました。まさに再現不能の一回性アート、六甲山という巨大なステージで、観客不在のパフォーマンスでした。 東お多福山の草原でストレッチをした他は、別に踊りながら歩いた訳ではなく、見かけはごく普通のハイキングとさほど変わりないものでした。しかし、これを期に「歩き」における自己の表出の可能性を深く考えることとなりました。 その後「近所登山パフォーマンス」と称した遊歩を、公募したメンバーで十数回おこないました。参加者の多くが「ん?」「アートとしての歩き?」「自己の表出?」「なんのこっちゃ?」と思いつつ、戸惑いつつ、我が遊歩に付き合ってくれました。 昨今「アウトドア」と称して、実は「インドア」、歩きもせずキャンプ場まで車で来て、ほとんど家にいるのと変わらない設備で、自然をおう歌しているふうな連中が多いですが、そういう似非アウトドアではない、目の前の扉をたたき破って「外へ」うって出ようとするパフォーマンスへと邁進していきました。(イノシシのように) 「山へ行けば、自然に出会えるとは限らない」 「自然と出会うための心とは?」 「自然と出会う時にまだ見ぬ自分を発見する」そして 「己との出会いこそが遊歩なのだ!」 などという屁理屈で立ち向かっても巨大なステージにさんざん跳ねかえされるのがおち、それよりもより自然というステージの中に、素直に溶け込み、自分を委ねてしまうことの方がいかに自分らしくなれるものか。アートとは自己の表出に他ならない。そこには平安な感性や想いだけではなく、屈折したり、押し込められた、歪なものもあるでしょう。この社会のあふれた情報に混乱して、自分自身や自らの進む道を見失いがちな自分をとにかく表出させようと来る日もくる日も歩き続けました。 過酷な登りに喘ごう! 気の根につまずこう! 暗闇に脅えよう! 風や沢の水に感謝しよう! 雪や氷壁に驚こう! 素直に、あるがままに! いつの日か、山頂に立つ一歩が大切なのでなく、それに至る全ての一歩が大切だと言うことが、うなずける自分と出会えるようになりました。今までに見知らなかった自分、隠されていた己を発見することが、どれだけ私を自由にさせてくれたか。これぞ素晴らしいパフォーマンスに違いありません。 さあ!次は、いよいよ山頭火の戸惑いの歩きに肉薄する「遍歴の遊歩」がお題なのか? |
舞踏とは自らの肉体と出会うことだ 〔土方 巽〕
遊歩もまさしくそうありたいものです。
■新ブログ・文人たちに見る〝遊歩〟
・解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
・何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
●〝歩き〟に特化した新しいブログを作りました。ぜひ、お立ち寄りくださいませ。
キンドル出版にて、 山端ぼう:著「つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」を出版いたしました。 遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。六甲全山縦走から穂高縦走へ・・・ 続きは・・・ |
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