第三の青春-じろさん本舗

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放浪、遍歴の旅~『私に向かう旅』としての遊歩

2006年12月09日 | ■遊歩資料アーカイブ

 【遊歩のススメ】No.05

■放浪、遍歴の旅にみる遊歩
スポーツとしての遊歩に始まって、冒険そして前回はアートと進んで、今回は予告通り遍歴の俳人・山頭火が登場です。

「遊歩とは、限りなき自己への旅立ち」…。ここまで少しずつ「遊歩」の核心に近づいてきましたが、ここで少し「遊歩」と旅、それも「放浪の」とか「遍歴の」と形容される「旅」とのかかわりを考えてみたいと思います。こういう旅に身を置いた先人、身を投げ出した方々は数多くいます。古から、学問にしろ、武術にしろ、宗教上の修行にしろ、また、ごく些細なきっかけにしろ、とにかくもあてどなく、または何かを求めて「歩き」始めた人々の、それぞれの軌跡を追ってみるのも「遊歩」を深める大きなヒントになるやもしれません。

 そういう先人の一人に山頭火がいます。このブログにも度々に引用させていただいています。奇しくも3年前にこの地(山口県)へ移住してきて、近くにあった彼の人の生家近くへも寄ってみましたが、地の人たちの山頭火への視線は、外部で抱いている孤高の俳人という視線とは少し違っているようでした。生活者としての負のイメージ(事業の失敗、夜逃げなど)が強かったようで、やや冷ややかな視線を感じるところもあります。全国的な彼の人への熱いブームもあって、地元でも再評価されたのは、平成の世になってからのようです。
(追記:平成29年になって、やっと種田山頭火顕彰記念館が生家近くにオープン)。

 山頭火のアルバムを20年ぶりに本棚から引っ張り出して読み返しました。もともと私自身、詩歌、俳句などに何の造詣もなく、ブログ用に句をつまみ食いをしているだけで、山頭火へ深く傾斜している訳でもなく、どちらかといえば生活者としてのひ弱さに対して(共感を抱きつつも?)嫌悪を感じることも多くあります。

  分け入っても分け入っても青い山 〔山頭火〕

 この遍歴を告げる句の前書きには「解くすべもない戸惑いを背負うて。行乞流転の旅にでた」と記されています。お堂で悠然と禅をむすんでいるだけでは己を掴まえきれなかった。とにもかくにも居を温めておれずに山頭火は歩き始めたのでしょう。彼にとっては確かな目算があって歩き出したのではなく、背負った戸惑いを解くために、つまり、我執にからまれ動きのとれない心を動かすために、とにかくは「歩き」始めるしかなかったのかもしれません。
「心があることにしがみついて動こうにも動けない。動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった。」

 20数年前、この句に出会った時は、私は唖然としました。C.フレッチャー「遊歩大全」の前書きを、瞳孔が開ききったままで読んだような感動とよく似た、いや全く同質な感動に襲われました。
狂ったような、這いずるような不明の遊歩を続けていた自分を、この15文字の句がすっぽりとおおい包んでくれた。「まるでその通りだろう!」この共感は解脱にちかい感動ともいえます。

「分け入っても分け入っても青い山」 山頭火にとっては、<原郷>を得ない者の このもどかしさを読んだのかも知れないですが、私にとっては青い山のそれ以上でも以下でもない自明の「遊歩」に光をさし照らしてくれるものでした。

▲上の写真/C.フレッチャーの「遊歩大全」の表紙挿絵(左)と山頭火アルバム(春陽堂)のグラビアを拝借しました。

私には、C.フレッチャーと山頭火の後ろ姿が二重に映ります。

『遊歩のススメ』
●読本10:遍歴、放浪の俳人・山頭火に見る〝遊歩〟
●読本6:ウォーキングは健全なる狂気である?(C.フレッチャー/遊歩大全)

 ■遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。








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キンドル出版にて、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」を出版いたしました。定価¥500

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。六甲全山縦走から穂高縦走へ・・・
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