2023 8/10 栃木県那須塩原市青木27
旧青木家那須別邸はドイツ公使や外務大臣等を務めた青木周蔵氏が那須別邸として建てた国指定重要文化財の洋館です。
邸宅前に広がる「ハンナガーデン」は 春には菜の花、夏には向日葵、秋にはコスモスと季節の花が咲き、ドイツ出身の夫人エリザベートとの間に生まれた 娘 ハンナに因んでハンナガーデン…と呼ばれています
黄色のひまわりと白壁の洋館のコントラストが美しい
青木農場を開設した青木周蔵(あおきしゅうぞう)(山口県出身、明治時代のドイツ公使・外務大臣、子爵)の那須別邸として、明治21年(1888)に建築されました。当初は中央の2階建ての部分だけでしたが、明治42年(1909)に増築し、ほぼ現在の形となりました。
設計者はドイツで建築学を学び、七十七銀行本店や台湾鉄道ホテル等の設計をした松ヶ崎萬長(つむなが)です。この青木邸は、わが国に残る萬長の唯一の作品で、軸組や小屋組にドイツ様式の構法を採用し、外壁に鱗形のスレートを用いるなどの特徴をもつ貴重な近代建築です。
洋館へと続く並木道
青木周蔵は、長州藩地下医三浦玄仲の長男として生まれた。慶応元年(1865年)青木家に婿養子入りした。以降「青木周蔵」となる
明治元年(1868年)から長州藩の藩費でプロイセンへ留学、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学医学部で学んだ。明治6年(1873年)には岩倉使節団のドイツ語通訳を務め、その際に木戸の推挙で外務省に入省して外交官の道を進むことになり、ベルリン公使館駐在の外務一等書記官心得に任じられた。翌年には駐ドイツ公使に任じられた。明治27年(1894年)に駐英公使となり、陸奥宗光外相とともに条約改正に尽力し、日英通商航海条約締結により幕末以来の不平等条約による治外法権を撤廃することに成功した。条約改正交渉における功績で明治20年(1887年)5月に華族の子爵位を与えられた
留学当為の若き日の周蔵
青木周蔵は、最初の駐プロイセン公使在任時代の明治7年(1874年)にプロイセン貴族ヘルマン・フォン・ラーデ=フンケンハーゲンの娘エリザベート・フォン・ラーデ=フンケンハーゲンと恋に落ちた。彼女の生家のラーデ家(ドイツ語版)は、14世紀ま
で遡ることができると言われるドイツ・ポンメルン地方の由緒ある貴族である
明治10年(1877年)4月20日、周蔵とエリザベートは、晴れてドイツ・ブレーメンの教会で結婚式を挙げた
周蔵は明治12年(1879年)8月22日に彼の子を妊娠していたエリザベートを伴って日本に帰国、同年12月16日に一人娘のハンナ(Hanna、日本名は花子)(明治12年12月16日生、昭和28年6月24日没)が誕生した。
ハンナは成長後、ヘルマン・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク侯爵の次男で在日本ドイツ大使館員だったアレクサンダー・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク伯爵( 1877-1953)と結婚し、シュレージエンにある彼の邸宅で暮らした。
東郷元帥と
日本最大規模の扇状地「那須野が原」には、明治から昭和にかけて大規模農場がひしめき合った時代がありました。別荘群は、当時の面影をいまに伝える貴重な生き証人です。これらの「大規模農場と別荘」を作り上げたのは、明治維新を牽引した元勲や明治政府の要職を歴任した貴族たち...いわゆる「華族」でした。そして、これら華族農場の成立の背景には、明治政府が推し進めた政策が大きく関わっていました
旧青木家那須別邸はドイツ公使や外務大臣等を務めた青木周蔵氏が那須別邸として建てた国指定重要文化財の洋館です。
邸宅前に広がる「ハンナガーデン」は 春には菜の花、夏には向日葵、秋にはコスモスと季節の花が咲き、ドイツ出身の夫人エリザベートとの間に生まれた 娘 ハンナに因んでハンナガーデン…と呼ばれています
黄色のひまわりと白壁の洋館のコントラストが美しい
青木農場を開設した青木周蔵(あおきしゅうぞう)(山口県出身、明治時代のドイツ公使・外務大臣、子爵)の那須別邸として、明治21年(1888)に建築されました。当初は中央の2階建ての部分だけでしたが、明治42年(1909)に増築し、ほぼ現在の形となりました。
設計者はドイツで建築学を学び、七十七銀行本店や台湾鉄道ホテル等の設計をした松ヶ崎萬長(つむなが)です。この青木邸は、わが国に残る萬長の唯一の作品で、軸組や小屋組にドイツ様式の構法を採用し、外壁に鱗形のスレートを用いるなどの特徴をもつ貴重な近代建築です。
洋館へと続く並木道
青木周蔵は、長州藩地下医三浦玄仲の長男として生まれた。慶応元年(1865年)青木家に婿養子入りした。以降「青木周蔵」となる
明治元年(1868年)から長州藩の藩費でプロイセンへ留学、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学医学部で学んだ。明治6年(1873年)には岩倉使節団のドイツ語通訳を務め、その際に木戸の推挙で外務省に入省して外交官の道を進むことになり、ベルリン公使館駐在の外務一等書記官心得に任じられた。翌年には駐ドイツ公使に任じられた。明治27年(1894年)に駐英公使となり、陸奥宗光外相とともに条約改正に尽力し、日英通商航海条約締結により幕末以来の不平等条約による治外法権を撤廃することに成功した。条約改正交渉における功績で明治20年(1887年)5月に華族の子爵位を与えられた
留学当為の若き日の周蔵
青木周蔵は、最初の駐プロイセン公使在任時代の明治7年(1874年)にプロイセン貴族ヘルマン・フォン・ラーデ=フンケンハーゲンの娘エリザベート・フォン・ラーデ=フンケンハーゲンと恋に落ちた。彼女の生家のラーデ家(ドイツ語版)は、14世紀ま
で遡ることができると言われるドイツ・ポンメルン地方の由緒ある貴族である
明治10年(1877年)4月20日、周蔵とエリザベートは、晴れてドイツ・ブレーメンの教会で結婚式を挙げた
周蔵は明治12年(1879年)8月22日に彼の子を妊娠していたエリザベートを伴って日本に帰国、同年12月16日に一人娘のハンナ(Hanna、日本名は花子)(明治12年12月16日生、昭和28年6月24日没)が誕生した。
ハンナは成長後、ヘルマン・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク侯爵の次男で在日本ドイツ大使館員だったアレクサンダー・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク伯爵( 1877-1953)と結婚し、シュレージエンにある彼の邸宅で暮らした。
東郷元帥と
日本最大規模の扇状地「那須野が原」には、明治から昭和にかけて大規模農場がひしめき合った時代がありました。別荘群は、当時の面影をいまに伝える貴重な生き証人です。これらの「大規模農場と別荘」を作り上げたのは、明治維新を牽引した元勲や明治政府の要職を歴任した貴族たち...いわゆる「華族」でした。そして、これら華族農場の成立の背景には、明治政府が推し進めた政策が大きく関わっていました
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