徒然なる写真日記

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葵祭

2011-05-18 00:03:09 | 京都散歩
葵祭
平安朝の優雅な古典行列は平安貴族そのままの姿で列をつくり、京都御所を出発、総勢500名以上の風雅な行列が下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かいます。

京都御所出発が10:30とのことで少なくとも1時間前にはいって場所を確保していないと とのアドバイスをもらったので、少し遅れの45分に南側の池の近くのコーナー付近にいってみるともう場所も隙間がない。カメラマンの三脚だらけいい場所はすぐ埋まる。少し南側の参道脇にダンボール敷いて場所とり、最前列は無理で2列目。
30分になり15分程経過し先導の宮内警察の馬が現われるが、行列はさらに遅れて・・ようやく先頭がゆっくりした歩みで通過。最初は男性群。馬が興奮していなないていた。 列は700m位になるのだろうか
順列は以下の通りらしい
 第1列 検非違使・山城使
第2列 御幣櫃・馬寮使・牛車
第3列 舞人・近衛使
第4列 陪従・内蔵使
斎王列 斎王・女人

説明のアナウンスも雅楽なんかもあるわけではないので 唯ゆっくりと時間が流れていく。平安絵巻物の光景









牛車だ







変わって女性陣




斎王代のお姫様 よく見えなかったが・・


























(文献より引用)
賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社の例祭で、5月15日に行われる。古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさすほど有名であった。

 この祭の特徴は、平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されているということである。
 賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。

 祭の起源と沿革は、今から約1400年前の欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。

 また、819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという、国家的行事になった。

 なお、応仁の乱(1467-77)ののち、1693年(元禄6)まで約200年の間、1871年(明治4)から1883年(明治16)まで、1943年(昭和18)から1952年(昭和27)まで、中断や行列の中止があった。しかし王朝の伝統は忠実に守られてきた。

この祭の見どころは路頭の儀(行列)で、勅使をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、平安貴族そのままの姿で列をつくり、京都御所を出発する。総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台の風雅な王朝行列が、遠く東山や北山の峰々を眺望しながら下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へ向かう。その道のりは約8キロにもおよぶ。

(運営)
平安時代の様式美が観客を魅了する行列の運営には、1回で約2900万円の費用がかかる。行政からの補助金と京都企業の寄付で大半を賄うが、優雅な舞台の裏では、関係者は景気の動向や天気に気をもみながら、やりくりしている。



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