新聞について語る
価値観揺らぐ時代 記者は自分の言葉で語れ
読者との関係変化 いずれ構造的にも大変動
評論家、玉木明さんと東大助教授水越伸さんの対談から
危機に立つという人がいたり、岐路に立つという向きがあったり、
日本の新聞の立ち姿に関しては、いつも世の議論が起きる。
―新聞をお読みになっていかがですか
玉木 この10年で変わってきている。スタイルの面も文章の上でも
時代とともにずいぶん変化した。いい面をあげれば、記者の
顔の見える記事が目立つようになった。
水越 比較購読をしていると、日本の記事はこんなに短いということに
気づく。せいぜい、一千字程度。アメリカの新聞は記事が多く、
全体的に分厚い。
玉木 文量の問題として、量の変化が質につながるかどうかはともかく
質的変化への要求は強い。価値観が明確な時代でなくなってきた今、
記事に記者の1人称が入っていたほうが読みやすいのではないか。
水越 従来のテレビニュースでは、10分の特集を組むのは大変だが、
それでは全然足りないというようなこともある。
玉木 かつては記者が、「自分の問題として考えるな」というようなこと
を言われた。しかし今日の問題として、記者が自分の問題として、
考えて書かないと読者には伝わらない。自分の言葉で語れるようでな
ければ、記事に訴える力がない。
水越 5,60万人の人にわかる、非常にわかりやすく誠実な論評と
800万人に向けた訳のわからない論評とは異なる。
読者の側でも変化が起きている。今までは送り手と受けてということ
マスメディアの状況は分かれていた。しかし今日、若い人の間で
ただ受けてでいるのは、我慢ならないということも見受けられる。
玉木 ジャーナリズムの底を支えているのは新聞で、新聞がしっかりしていれば、
全体は持つはずだ。ダメになれば、テレビもニューメディアもない。
とにかく、記者になったら自分で取材し、自分で考え、自分の責任で書く。
既成の概念にとらわれることなく、新しい時代の感覚を紙面に反映させて
ほしい。手垢のついた表現方法ではダメ。もっと冒険してほしい。
水越 いずれマスメディアは、構造的、経営的に大変動せざるをえない。記者は
ジャーナリズムを守るためにも、市民と連携をとり、メディアにかかわる
人間としての全体性を回復しつつ、仕事をしていってほしい。
(朝日新聞 1997年10月18日付 主説・解説面より 要約)
これだけ、テレビ、ケータイ、インターネットによる通信が発達した中で、
新聞の役割ということについて考えてみる必要があるのではないか。
ニュースの速報にしてみても、おそらく新聞よりも上記にあげた3つのほうが
早いだろう。それでも今もなお、多くの社会人にとって新聞から得られる情報は
信頼できるものだと思う。マスメディアによる情報はすべてが一様に
信じきれるものではない。どの情報も事実ではあるが、事実の1部分でしか
ないということも頭に入れておかなければならない。
上記の玉木氏が言うように、ただ起こったことをそのまま記事にしていても
読者の私たちには響かない。なぜなら、ただ起こったという事実のみで
あるならば、ニューズ番組の映像のほうがわかりやすい。
人が現場でどのように感じ取ったのか、何が起こっているのか、
そうした現場の生の声、リアルな情報が私たち視聴者は知りたいのだ。
前にこんなことを授業で言っていたことを思い出した。
いくらパソコンの画面で文章を読むといっても、それは眺めているのと
同じことだ。新聞や本といった実際に手にとって読むことのほうが、
理解や記憶されるものだと。
モバイルの風景が絶えず見られる今日。新聞の文化は絶やしたくはないと
思う。
価値観揺らぐ時代 記者は自分の言葉で語れ
読者との関係変化 いずれ構造的にも大変動
評論家、玉木明さんと東大助教授水越伸さんの対談から
危機に立つという人がいたり、岐路に立つという向きがあったり、
日本の新聞の立ち姿に関しては、いつも世の議論が起きる。
―新聞をお読みになっていかがですか
玉木 この10年で変わってきている。スタイルの面も文章の上でも
時代とともにずいぶん変化した。いい面をあげれば、記者の
顔の見える記事が目立つようになった。
水越 比較購読をしていると、日本の記事はこんなに短いということに
気づく。せいぜい、一千字程度。アメリカの新聞は記事が多く、
全体的に分厚い。
玉木 文量の問題として、量の変化が質につながるかどうかはともかく
質的変化への要求は強い。価値観が明確な時代でなくなってきた今、
記事に記者の1人称が入っていたほうが読みやすいのではないか。
水越 従来のテレビニュースでは、10分の特集を組むのは大変だが、
それでは全然足りないというようなこともある。
玉木 かつては記者が、「自分の問題として考えるな」というようなこと
を言われた。しかし今日の問題として、記者が自分の問題として、
考えて書かないと読者には伝わらない。自分の言葉で語れるようでな
ければ、記事に訴える力がない。
水越 5,60万人の人にわかる、非常にわかりやすく誠実な論評と
800万人に向けた訳のわからない論評とは異なる。
読者の側でも変化が起きている。今までは送り手と受けてということ
マスメディアの状況は分かれていた。しかし今日、若い人の間で
ただ受けてでいるのは、我慢ならないということも見受けられる。
玉木 ジャーナリズムの底を支えているのは新聞で、新聞がしっかりしていれば、
全体は持つはずだ。ダメになれば、テレビもニューメディアもない。
とにかく、記者になったら自分で取材し、自分で考え、自分の責任で書く。
既成の概念にとらわれることなく、新しい時代の感覚を紙面に反映させて
ほしい。手垢のついた表現方法ではダメ。もっと冒険してほしい。
水越 いずれマスメディアは、構造的、経営的に大変動せざるをえない。記者は
ジャーナリズムを守るためにも、市民と連携をとり、メディアにかかわる
人間としての全体性を回復しつつ、仕事をしていってほしい。
(朝日新聞 1997年10月18日付 主説・解説面より 要約)
これだけ、テレビ、ケータイ、インターネットによる通信が発達した中で、
新聞の役割ということについて考えてみる必要があるのではないか。
ニュースの速報にしてみても、おそらく新聞よりも上記にあげた3つのほうが
早いだろう。それでも今もなお、多くの社会人にとって新聞から得られる情報は
信頼できるものだと思う。マスメディアによる情報はすべてが一様に
信じきれるものではない。どの情報も事実ではあるが、事実の1部分でしか
ないということも頭に入れておかなければならない。
上記の玉木氏が言うように、ただ起こったことをそのまま記事にしていても
読者の私たちには響かない。なぜなら、ただ起こったという事実のみで
あるならば、ニューズ番組の映像のほうがわかりやすい。
人が現場でどのように感じ取ったのか、何が起こっているのか、
そうした現場の生の声、リアルな情報が私たち視聴者は知りたいのだ。
前にこんなことを授業で言っていたことを思い出した。
いくらパソコンの画面で文章を読むといっても、それは眺めているのと
同じことだ。新聞や本といった実際に手にとって読むことのほうが、
理解や記憶されるものだと。
モバイルの風景が絶えず見られる今日。新聞の文化は絶やしたくはないと
思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます