木曜日担当のノリです
8月9日、無事に福井の永平寺に着いて、
新潟に戻ってきました。出発式で、隊長が坊主になったために、
ノリも坊主頭になってしまいました。
(ちなみに今回の旅で、5人も坊主頭になりました。)
7月26日から、8月9日まで、(途中1日ほど、ノリは抜けました)
新潟から、福井の永平寺まで。
2週間の旅は、始まってしまうと
思いのほか、あっという間だった気がします。
1日およそ、20キロから、30キロのペース
歩いている時間も、5~6時間ほどと、
1日じゅう、まるまる歩いているわけではありませんでした。
今年は、例年の夏に比べて、晴れの日が少ないことも
行脚には、プラスに働きました。
日常の中にいると、日々何かに追われていたり、
やらなければいけないこと、やりたいこと、と
様々なコトが自分の身の周りには、あるのですが、
行脚の旅の最中は、
歩くこと、
食事をすること、
寝ること、
とやることがシンプルだったことで、
なんだか、すごく新鮮だった感じがします。
2週間も、さすがに歩いていると、
いっぱい考えられるだろうなとは、思うのですが、
でも、実際20分、30分、40分、1時間と歩いていると、
思いのほか、何かを考えているよりも、
足を1歩、1歩、前に進めることに夢中だった気がします。
行く先々が、ノリにとって、はじめてみる土地、景色、空気であって、
ワクワクしながら、歩いていました。
今回の旅である、ハワイに修行にいっている菅原さんというお坊さんの方も
一緒に参加をしていました。
その人が持ってきた団扇太鼓をお借りして、太鼓を打ちながら、歩いていると
太鼓の音を奏でるのに、足を前に進めるのに夢中でした。
はじめ、太鼓を叩きながら、歩いた時、
太鼓が重いこともあって、ただ夢中に叩いていました。
そんなことを、菅原さんに伝えると、
「どうして、この太鼓を叩くのかってことを、簡単に言うと、
この太鼓の音を聞くことで、聞いた人々に、エネルギーが届くような
気持ちで叩いている。あそこで歩きながら、頑張っている人がいる、
それなら、私もちょっと頑張ってみようかな、そんな気持ちに
なれるよう、一生懸命に叩いているよ。」
ただ、歩くこと、叩くことに夢中になっていた自分
次に叩く時には、菅原さんから、聞いた、そのことを
想い出しながら叩きました。
森の中の山道を、太鼓を叩きながら歩くと、
やまびことなって、森の中を反響して音が返ってきます。
市街地を歩けば、太鼓の音を聞いた人々が、
店の中から、こちらに目を向けたり、
また、小さな子どもがいる親子は、家から出てきて、
不思議そうな目で、私達を見ていました。
道路を挟んで向こう側の道を
自転車でこぎながら、どこかに向かおうとしている中学生は、
太鼓を叩いている行脚の私達を見ながら、
「がんばってください。」の一言
何も言わなくても、彼らに姿や一生懸命さで伝わるものがあったのかなと。
そのシーンが、記憶として強く残っています。
小さな子どもの頃のほうが、自分の素直な気持ちを伝えられていたのに、
中学生、高校生、そして大人になるにつれて、
自分の発言や、振る舞いが他人にどう見られているか、どう映っているか
気になったりします。
「空気を読む」ことが大切にされている中で、
でも、「空気を読み過ぎている」ことも、どうなのかなと感じたりもしました。
福井からの帰り道、高速道路を使ってしまえば、およそ6時間くらいで、
新潟に戻ってこれる。
そんな距離を、2週間かけて、行脚するなんて、
今の時代からすれば、何をそんな無駄なことと言われてもしかたがない。
でも、車を使えば、会えなかった人々に会うことが出来た。
これが、行脚の工程の中で強く感じたことです。
行脚をしている中で、きっと多くのドライバーが僕達の姿を見た。
それは一瞬だったかもしれないけど、
何してんだろう?、あの太鼓の音は何だろう、と気にかけてくれかもしれない。
道行く人々には、挨拶をしながら、前へ前へと進んだ。
「こんにちは、新潟から歩いてきました。」
「本当に、新潟から、歩いてきたの!?がんばってね。」
「僕達、平和のために行脚してます。
市民で核兵器解体が出来ることを広めるために歩いています。」
伝えられること、と言えば、ほんの2、3言しかない。
相手に、もちろん100%は伝わっていないが、
でも、そんな短いやりとりでも、歩かなければ、声をかけなければ、
出会うことはなかったと思うと、不思議な気持ちになる。
「新しい人に出会い、別れる。」
一期一会の言葉を強く意識させられた気がします。
お坊さんであった菅原さんは、行脚を終えた後に、
「人の世は一期一会であるから、何事も丁寧にしよう
何事も大切にしよう 会った時が別れの時でもあるから
出会いを大切にしよう 」
こんな詩もありますと紹介してくれました。
まだまだ、自分の中で、行脚の旅は振り返れていないのですが、
今週は、この辺で。
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8月9日、無事に福井の永平寺に着いて、
新潟に戻ってきました。出発式で、隊長が坊主になったために、
ノリも坊主頭になってしまいました。
(ちなみに今回の旅で、5人も坊主頭になりました。)
7月26日から、8月9日まで、(途中1日ほど、ノリは抜けました)
新潟から、福井の永平寺まで。
2週間の旅は、始まってしまうと
思いのほか、あっという間だった気がします。
1日およそ、20キロから、30キロのペース
歩いている時間も、5~6時間ほどと、
1日じゅう、まるまる歩いているわけではありませんでした。
今年は、例年の夏に比べて、晴れの日が少ないことも
行脚には、プラスに働きました。
日常の中にいると、日々何かに追われていたり、
やらなければいけないこと、やりたいこと、と
様々なコトが自分の身の周りには、あるのですが、
行脚の旅の最中は、
歩くこと、
食事をすること、
寝ること、
とやることがシンプルだったことで、
なんだか、すごく新鮮だった感じがします。
2週間も、さすがに歩いていると、
いっぱい考えられるだろうなとは、思うのですが、
でも、実際20分、30分、40分、1時間と歩いていると、
思いのほか、何かを考えているよりも、
足を1歩、1歩、前に進めることに夢中だった気がします。
行く先々が、ノリにとって、はじめてみる土地、景色、空気であって、
ワクワクしながら、歩いていました。
今回の旅である、ハワイに修行にいっている菅原さんというお坊さんの方も
一緒に参加をしていました。
その人が持ってきた団扇太鼓をお借りして、太鼓を打ちながら、歩いていると
太鼓の音を奏でるのに、足を前に進めるのに夢中でした。
はじめ、太鼓を叩きながら、歩いた時、
太鼓が重いこともあって、ただ夢中に叩いていました。
そんなことを、菅原さんに伝えると、
「どうして、この太鼓を叩くのかってことを、簡単に言うと、
この太鼓の音を聞くことで、聞いた人々に、エネルギーが届くような
気持ちで叩いている。あそこで歩きながら、頑張っている人がいる、
それなら、私もちょっと頑張ってみようかな、そんな気持ちに
なれるよう、一生懸命に叩いているよ。」
ただ、歩くこと、叩くことに夢中になっていた自分
次に叩く時には、菅原さんから、聞いた、そのことを
想い出しながら叩きました。
森の中の山道を、太鼓を叩きながら歩くと、
やまびことなって、森の中を反響して音が返ってきます。
市街地を歩けば、太鼓の音を聞いた人々が、
店の中から、こちらに目を向けたり、
また、小さな子どもがいる親子は、家から出てきて、
不思議そうな目で、私達を見ていました。
道路を挟んで向こう側の道を
自転車でこぎながら、どこかに向かおうとしている中学生は、
太鼓を叩いている行脚の私達を見ながら、
「がんばってください。」の一言
何も言わなくても、彼らに姿や一生懸命さで伝わるものがあったのかなと。
そのシーンが、記憶として強く残っています。
小さな子どもの頃のほうが、自分の素直な気持ちを伝えられていたのに、
中学生、高校生、そして大人になるにつれて、
自分の発言や、振る舞いが他人にどう見られているか、どう映っているか
気になったりします。
「空気を読む」ことが大切にされている中で、
でも、「空気を読み過ぎている」ことも、どうなのかなと感じたりもしました。
福井からの帰り道、高速道路を使ってしまえば、およそ6時間くらいで、
新潟に戻ってこれる。
そんな距離を、2週間かけて、行脚するなんて、
今の時代からすれば、何をそんな無駄なことと言われてもしかたがない。
でも、車を使えば、会えなかった人々に会うことが出来た。
これが、行脚の工程の中で強く感じたことです。
行脚をしている中で、きっと多くのドライバーが僕達の姿を見た。
それは一瞬だったかもしれないけど、
何してんだろう?、あの太鼓の音は何だろう、と気にかけてくれかもしれない。
道行く人々には、挨拶をしながら、前へ前へと進んだ。
「こんにちは、新潟から歩いてきました。」
「本当に、新潟から、歩いてきたの!?がんばってね。」
「僕達、平和のために行脚してます。
市民で核兵器解体が出来ることを広めるために歩いています。」
伝えられること、と言えば、ほんの2、3言しかない。
相手に、もちろん100%は伝わっていないが、
でも、そんな短いやりとりでも、歩かなければ、声をかけなければ、
出会うことはなかったと思うと、不思議な気持ちになる。
「新しい人に出会い、別れる。」
一期一会の言葉を強く意識させられた気がします。
お坊さんであった菅原さんは、行脚を終えた後に、
「人の世は一期一会であるから、何事も丁寧にしよう
何事も大切にしよう 会った時が別れの時でもあるから
出会いを大切にしよう 」
こんな詩もありますと紹介してくれました。
まだまだ、自分の中で、行脚の旅は振り返れていないのですが、
今週は、この辺で。
新潟に戻ったら詳しく聞かせて下さい(^^)