今夜も一杯! 昭和浪漫

日常生活の中で温故知新に焦点をあてて書いてます。

1985年頃の米国で会った有名人

2023年05月05日 08時42分54秒 | タウンマネジメント
久しぶりに思い出した米国のロックミュージシャンのエドワード・ヴァン・ヘイレン。最初の出会いが米国西海岸の田舎町の飲み屋さん。場所はカリフォルニア州のパーム・スプリングスで、ロスから車で3時間程度なので米国の俳優や有名人の多くは、自宅はビバリーヒルズに所有して、避寒地として同じカリフォルニア州のパームスプリングに別荘を持つのが一般的。当時の自分は再生可能エネルギーの風力発電の開発をこの地で担当していた。

また、避寒地(砂漠)なので冬場でも暖かい。日本のプロゴルファー(レストランで岡本綾子さんにも何度も遭遇した)も米国ツアーが始まるまでこの町でトレーニングしていた。

ミュージシャンの彼との最初の出会いでは相手が何者か全く知らないし、マネージャーと3人の美人モデルを連れて、飲みに来ていた。こちらも同じ会社のメンバー3名で飲んでいたが、いつのまにか一緒のテーブルで盛り上がり、彼がすぐ近くの自宅(車で数分程度)に一緒に行こうと誘ってくれたので、車2台で彼の別荘を訪問した。
彼のマネージャーもよほどいい気分だったのに、こちらの3名が全く相手の事を知らないのが気に入らないのか、記念に彼が大事にしているギターを上げると言い出した。ギターにサインまでして何度も勧めてくれたが写真のようなサイケデリックなデザインのギターは好きではなかったので丁寧にお断りした。

後で知ったが、かれは7つ年下で、当時は29歳だったという事になる。全世界で8,000万枚以上のアルバムセールスを記録した。あの時のギターを素直に貰っておけばよかった。同じデザインのものが先日の米国の入札で落札されたが金額が5億円...。

日本最初のパソコンを設計製作した時

2023年05月05日 08時35分47秒 | タウンマネジメント
ゴールデンウィーク中だが、昨夜は本棚や机のまわりの古い雑誌やメモを断捨離しはじめた。なんと自分が26歳、つまり49年前(1974年)のノートメモが出てきた。
メモ内容を要約すると
1974年に米国のインテル社が4004というCPUのテストサンプルを日本に出荷した。当時は、トランジスタからICに変わりつつある時代で、周辺回路を設計するには英語が読めないと、CPU周辺に使用するICを販売していたテキサスインストルメント社やフェアチャイルド社の設計資料が役に立たない。

開発チ-ムの上司二人M氏、W氏と自分の3人の中で、自分は英語が得意だったので翻訳しCPU4004のタイミングチャ-トだけから手分けをして回路設計をした。
最初のサンプルが到着して、手作りのプリント基盤の上にマウントして、動いた時は、3人で大騒ぎ。あの時は日本良い頭の良い集団だったと今でも思う。

日本で初めて1ボ-トCPUが出来た時で、CPU回路周辺の記憶装置もまだスタチックの256ビット、今では考えられない極小のメモリーを莫大な数を並べるしかなかった。

プログラムと言ってもONOFFスイッチを並べ、条件を作り1個ずつ命令語を記憶させるに、3人で徹夜の連続。しかし記憶装置の技術進歩は凄い勢いで短期間に1024ビットサイズ(1メガ)にグレードアップが始まり、毎月のように記憶容量が拡大して行った。その後は喫茶店向けの卓上ゲーム機にも手を出して爆売れだったが、本業とは違うという会社方針に従い3年で辞めてしまった。その2年後の78年には「スペースインベーダー」ゲームが、全国的に大ヒット。その後もゲームソフトだけは興味があり、ファミコンが出てきても、趣味で日本や米国のソフト解読をしていた時代もある。