昭和史と幕末史 (半藤一利 平凡社と新潮文庫)
両方とも読みやすいのですらすら読んでしまった。著者はそんなこと言ってないけど、どうも昭和の太平洋戦争の発端は幕末にあるのではないかと松本清張さんになった気分で推理を書いてみたい。幕末史は司馬さんの小説で知ってるつもりだったが、今回半藤さんの説(わかりやすく書いてある)を読んでああそうかと思うところもたくさんあった。幕末史と昭和史の開戦前後のところを読んで、総合して考えるとこうなる。
薩摩と長州はとことん仲が悪いのに同じ政府の中枢にいた。両者はお互いを不倶戴天の敵だとみていた。日本では不倶戴天の敵でも一代限りが普通である。(中央アジアではいろいろな民族が争うので七代前の敵まで争うらしいけれど。)現にわたしにも、あの野郎ぜったい許さないからというのはいるが息子娘にまであいつをやっつけてこいとはまだ言いつけていない。一代限りである。しかし、薩摩(海軍)と長州(陸軍)は別である。何代にも渡って仲が悪かった。男たちは権力を巡って嫉妬するものである。
ところで、太平洋戦争は始まりがわかりにくい。駆け出しのお相撲さんが横綱に挑む感がある。海軍が陸軍(逆かもしれないが)と抱き合い心中すると考えるとわかりやすいのではないか。あいつ許さないとなると外の力(米国)を借り、かつ自らも犠牲にしてあいつを倒してしまおうとなる心はなんとなく理解できる。どちらが海軍でどちらが陸軍かはわからないながらどうもそんな匂いがしてくる。(東京裁判で海軍の軍人さんが裁かれなかったところを見ると、どっちがどっちかは明らかな気がする。)
小学校1,2年のころ我々はちょっとした不正を働いているクラスメートに、
「ゆーたろゆたろ、せんせーにゆーたろ。」
(担任に言いつけるぞ)と囃したものである。この場合言いつけた児童のほうも担任からお目玉を頂戴することが多いが、それでも外の力(担任)を使ってでもそいつを懲らしめたいものである。それと同じ感覚である。
将軍大将といえども七歳の童子と同じ精神構造であることに注意しないといけない。男の権力を巡る嫉妬はなかなか厄介であることは注意しないといけない。男の嫉妬は世の中を灰燼に帰すくらいの力がある。
わたしは直接世の中を灰燼に帰すの被害を受けていないが、わたしの両親は甚大な被害を受けた。したがって間接には受けている。抱き合い心中は傍迷惑だからやめていただきたい。そこまでいかなくても、仕事をするときに身の回りで起こる権力闘争は迷惑なものである。仕事は衣食住の資を得るためのものだと思っていたが、相手を倒すために仕事をする人がいる。そういう人は、関係ない人に必要以上に高圧的に仕事をさせる。こういったはなはだ迷惑なひとが、組織のトップに立つことが多い。わたしはこういった迷惑な人に自分の大事な時間をだいぶん奪われたなーと思いながらこの二冊の本を読んだ。
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