映画 レミゼラブル②
なぜこの題材が2012年に映画化されたのかが疑問であった。原作は1860年代の作品である。(わが国では1900年黒岩涙香訳が名文だったのでずいぶん読まれたらしい。)波乱万丈の人生であった主人公の情(なさけ)と、法律を厳格に執行しようとする者との争いの物語として私は読んだ。原作はどうも法律を厳格に執行しようとする者のほうの分が悪い書き方であった。(そういえば法律を厳格に執行しようとする者は司馬遷の史記でも(法家の韓非子)好意的に書かれていない。)
しかし、この映画の製作者監督も法律の執行云々などは付け足しであり、話をドラマチックにするためだけのエピソードであり、実は貧困に重きを置いて作っているように見える。もし製作者の意図を重んじるなら映画の意味は少々異なってくる。資本主義の草創期には貧困が蔓延していたといいたいのである。同様にこれから貧困の時代が来るといいたいのではないか。
マルクスの資本論も1860年代のロンドンの貧困を観察して書かれたという。ユゴーのレミゼラブルも1860年代のパリの貧困を観察して書かれたのは間違いないであろう。(1900年の黒岩涙香東京に貧困が蔓延していたのかどうかは知らない。)マルクスのほうは貧困撲滅の処方箋を提示し(ただし効くかどうかは不明であるが)、ユゴーのほうは貧困の中で巧みに生き抜いていく男をドラマチックに描いたということではないか。(ここで主人公がどうして囚人から市長にまで成り上がったのかの説明がないのが残念である。そんなにうまいこと行くものなのか?どうもフランス映画には、この手の説明不足が多いような気がする。)
こう考えるとこの映画は、2012年に資本主義の草創期と同じような貧困の時代が来ますよと暗示しているのか。アートはその時代の人々の心の反映であるはずで、そうでなければそのアートはヒットしない。このレミゼラブルが多少なりともヒットしたのであるから、それは人々の心にこれから貧困の時代の予感がある(あった)ということではないか、わたしはそのように疑う。
2012年前後には、アメリカEUが極端な緩和をやり遅れて日本も金融緩和に乗り出した頃である。それはいいことだという意見とやむをえないという意見とやってはいけないという意見が拮抗していた時代である。やってみたところ、プロの人々はどう見ているのか知らないが少なくとも庶民は大した変化がなく拍子抜けした時代でもある。
2012年からもう12年経った。干支が一巡したときにリバイバルが出て、同じ貧困の場面が出てきた。前回見たときは何か作り物臭かったが、今回はややリアルに見えたような気がする。
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