河岡武春 「海の民」 漁村の歴史と民俗 平凡社選書104
1987年2月12日 初版第1版
著者は1927年、山口県生まれ。広島文理科大学文学部国史学科卒。財団法人日本常民文化研究所常務理事、神奈川大学経済学部教授、神奈川大学日本常民文化研究所所員を歴任。日本民俗学専攻。1986年没。
海の民―漁村の歴史と民俗平凡社このアイテムの詳細を見る |
著者は戦後、渋沢敬三主宰の日本常民文化研究所に参加し漁村民俗・旧漁業・民具の研究を行う。昭和61年10月に没。その遺稿を網野善彦氏らが整理、漁村・漁民・漁業に関するものが平凡社から「海の民」と題して刊行された。(編集は没前から始まっていた様子・・・)収められた文は、大半が昭和20年代から30年代にかけてのものである。
「川崎のぼる」が少年サンデーに連載していた「アニマル・1」の主人公は船上生活者だった。「アニマル・1」は1967年頃の話。主人公の父親は住居である船で荷物を運搬する仕事に従事しているという設定だったと思う。これもずいぶんと前のことだが、NHKがTVで広島県尾道市の船上生活者が行政の勧めで陸に上がる決断をするドキュメンタリーを放送したのを観た記憶もある。今はどうなのか知らないが船を住居とする人々はそんな遠くない時代に日本にも珍しくなかったのだ。
この「海の民」には尾道の船上生活者の発祥の理由も書かれている。能地という地名で出てくる場所が尾道あたりになる。
漁業は古くは農業と併用するもので、それ単体で営めるものではなかった。これは魚を消費する市場と関係がある。
魚は生もの。それを大量に消費する市場と大量に商品として輸送できる手段が無ければ漁業だけを生業とする漁村も成り立たない。また海岸に沿った集落は海賊等の治安上の問題もある。漁をする人々は半農半漁で生活を営み、家屋は山の中腹に海から目立たないように建て、炊事をするときの火の煙にも気をつかったとある。
漁業のみで生活が成り立つのは魚の大規模な需要が発生してからのこと。俵物とよばれる乾物の流通や、漁業とは異なるが回船などの運輸の需要があって初めて専業が成り立つが、これも世の中が安定することが前提となる。
この著書で取り上げられている魚の大きな需要は鎌倉~室町時代の日本の農業革新期にはじまる。当時の農業の最先端地域は近畿地方で、新田開発にともなう大量の肥料需要があり、干し腐らせた鰯がその需要をまかなった。この時代から地引網、その発展型である舟引網で大量の魚を一気に捕獲する方法があみだされる。それを担ったのは摂津・泉州・紀州地方の漁民だった。
豊臣秀吉の時代、日本全土の治安は安定する。天正16年、秀吉の兵漁分離政策により海賊鎮圧令が出され日本の海の治安も安定した。それとともに海岸に集落が出来はじめ漁村もできあがるのだが、その漁法には大量の魚を捕獲するというものではなかった。
相続についての話になるが、紀州地方の漁民は末子相続の制度をとっていた。男子が成長し嫁をもらい一家を成すと親は子を連れて家を出る。家を出て新たに自分の家を持つ。次の男子が嫁をもらうとまた下の子を連れて家をでる。これを繰り返し最終的に末子が親の面倒をみることになり、祖先の法事も末子が行う。財産である船も同じで、一家を成した子に船を譲っていく。
世の中が安定し飢えが少なくなると人口も増える。相続を繰り返すと同じ漁業に従事する人口が増えることになるが魚場は限られる。魚場を求めて遠洋漁業ともいえる遠地への操業がはじまる。
彼らは船を住みかとし黒潮に乗り関東まで魚場を広げる。その地その地で地場の人たちと折り合いをつけながら漁業を営むようになる。九十九里浜の地引網も紀州漁民の指導を受けた。また瀬戸内にも魚場を広げ次第に移民していく。移民先は対馬・五島列島までに広がり江戸時代が終わり明治になると対馬の先の朝鮮半島まで移り住み、その漁法は朝鮮にも伝播することになる。
以下メモより
--↓-------------------------------------------
※瀬戸内広島の「能地」←紀州「海部」郡を含む地域からの移住地
海部あたりのどこか?は不明
宮本常一は「雑賀崎説」をとる。しかし強く主張しているわけではない
p24 瀬戸内海の漂泊民の根拠地
広島県三原市幸崎町字能地 (昭和25年)
p25 藻が三本ありゃ曳いて通れ、家が三軒あれば売って通れ
p26 備後、安芸、伊予
古くは海賊を恐れ人家は海岸から離れてあり地方と呼ばれた
海岸漁村は浦と呼ばれ地方と対立
浜の人は海からの移住
p47 能地の明治初年の戸籍
船住号と題された陸上に家を持たぬ人々の別冊があった
p48 夫婦単位別世帯制
分家のことをデイエ
末子相続制
p49 移住を促す要員
p55 関東漁業の発展
紀州漁師 千葉九十九里 地引網の創設
弘治、永禄1555-70
諸説あり
p59 相続制から見た海民的性格
p62 末子相続とそれに近い隠居分家相続
p72 和泉、紀州の漁師は早くから遠地に出現したが、それは背後に大きな資本があってのこと。瀬戸内海の漂泊民にはそれがない。
p76 浮鯛抄 日本書紀
p96 名替まつり
旧正月の15日頃、根拠地のおじさん、おばさんの家で名をつけてもらった
p104 天正16年 秀吉の兵漁分離 海賊鎮圧令
p109 鎌倉~室町
近畿には農地の集約化と多角化
名主の成立
干鰯が肥料として求められる
魚肥の需要が見られなかった朝鮮半島と比べて、日本の漁業は
一種のブームを形成している
こうした先進地域を背後地として、紀州・和泉・摂津の漁民は地曳の
段階を抜け出て、戦国末期には掛引・中高・八田網という、より高度
の漁業技術に達した
p119 農家の住居は山麓にあった
海賊を恐れ高所に位置し海に対し展望は利くが見えづらい家を構えた
徳川の中期になってから海岸に家を建てるようになった
p129 日本の漁民による朝鮮漁業の開拓は筑前鐘崎の人たちによって室町時代の朝鮮貿易期に行われたが鎮圧にあって中断
p130 徳川中期以降、経済発達に従い沿岸漁業を一歩越え対州近海へ
明治9年の日朝修好条約から朝鮮への出漁は増え、敗戦時に至るまで
70年間指導
朝鮮水産開発史上に名を留める(安芸坂町漁民)
以上
--↑-------------------------------------------
お探しのものは見つかりましたでしょうか?
↓人気blogランキングにご協力ください↓