投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

江戸時代の家 - 大岡敏昭(水曜社)

 2017年11月17日 初版第1刷発行

著者は昭和19年、神戸市生まれ。熊本県立大学名誉教授。九州大学大学院博士課程修了(建築学専攻)、工学博士。

これは良書。武士の家、農民の家、町人の家、隠者の家について書いてある。それぞれ当時の絵や実際の間取りが書いてあり、それも多い。

日本の家の特徴は玄関、引き違い戸、引き戸、高床、座敷、縁側。玄関は日本だけにしかない。玄関と座敷は武士の家の形。これは江戸時代以前から京都で出来上がった形だが、江戸時代になって京都の武家で一般化され、それが全国に広まる。玄関は特別な仕様で農家や民家には広まらなかったが、座敷は一般化していく。座敷はハレの時に使う場所として認知されていく。

武士の家の様式を取り入れる前の農家は多種多様。部屋数は限られているのにハレの間としての座敷を作ることで普段の使い勝手は制限されたのでないかと想像する。

現在はどうだろう。もう普通の民家にはハレの場としての座敷は不用になっていると思う。私は小学生のころ座敷が不要だという作文を書いたことがあり、父にもそう言った記憶がある。父は「客をもてなす時に必要だ」と返してきたが、納得いかなかった。江戸時代の農家でさへ座敷を持て余し倉庫として使っていたとこの本にはあるくらいだ。現代の民家にはもう畳の部屋さへ無くなった。日本の民家らしさは玄関がありそこで靴を脱ぐ様式が残っているだけ。

建築や構造物で日本の特徴は非対称というのがある。日本以外は対称だと思っていいと思う。それがいつの頃からなのかと思っていたら、大陸の文化を取り入れた飛鳥時代にはもうそうなっていたと分かった。「醍醐天皇第16皇子兼明親皇。959年(天徳3年)池亭(池亭記からの復元)二町分の広さ。池の北に亭。それは茅葺。中国風の意匠から離れて日本古来の建物を置く」。この時点で非対称で詫び寂びの世界になっている。

以下メモ
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P18
1598年、上杉氏は越後から会津120万石へ転封。1601年30万石で米沢へ。家臣は5,000人。城下町が整うまで仮小屋で暮らす。9年後、屋敷割が行われ宅地を与えられたが掘っ立て柱、藁葺き、よしずを部屋の仕切りとし、床は土間の土座住まい。享保期(1720年~)までの家は土間、客間だけ床を上げ板敷。侍組の家で格式の高い96家(1790年(寛政2年)管見談)でこのありさま。

P20
南入りがくずれるのは室町時代中頃から。

P22
京都の武家町 1642年(寛永19年)の絵図には無い。1677年(延宝5年)岡部土佐守の家は建っていた。座敷には畳床、縁がある。縁の外には内土間あり。土縁という。

P24
公家町(京都)与力の家。茶の間が出来る。湯殿はかけ湯。

P71
茶の間は江戸時代中後期には地方へも普及。常居(弘前)、応待台所(飯田)、勝手(松本)、台所(備中松山)、末(鹿児島)などと呼ぶこともある。

P72
茶の間は東日本で広く、西日本で狭い。庄内上級武士の家で35畳、西日本では4.5~6畳。囲炉裏の有無もあるが東は接客を茶の間で行うことも多く、西はそれを茶の間ではしないことも理由か。

P73
居間は江戸時代初め上級、中級武士の家から

P74
玄関の間、料理の間、長屋、土縁などは江戸時代に成立

P76
引き違い建具は平安時代後期、寝殿造りの内部障子や僧房、庶民住宅の外部板戸としてあらわれる。世界に類を見ない。

P77
妻入り。中部、東北日本海側、北陸に多い。積雪との関係か。

P80
醍醐天皇第16皇子兼明親皇。959年(天徳3年)池亭(池亭記からの復元)二町分の広さ。池の北に亭。それは茅葺。中国風の意匠から離れて日本古来の建物を置くと言う、とても風流な姿

P87
儒教は飛鳥時代以前に伝来。祖先祭祀。しかし日本では冠婚葬祭は根付かなかった。平安時代初めまでは貴族、庶民に墓は無い。死体は山野や河原に遺棄

続日本後記 842年(承和9年)
勅左右京職東西悲田、並給料物、令焼斂嶋田及鴨河原等髑髏惣五千五百余頭 
左右京職および東西悲田院に勅して、並びに必要経費を渡し、嶋田および鴨河原等の髑髏総じて五千五百余頭を焼き、埋葬した 

貴族、宇治小幡山が埋骨の地。勝手にいたるところに埋葬され参る人もなし。これが一般的
平安時代後期、仏教が葬儀や祖先祭祀をおこなうようになり、この時期に遺骨の一部を高野山に納めることが流行する

P78
名主、御館→豪農 門屋、名子(ナゴ)→隷属農民
これが江戸時代に入ると本百姓化が進み、庄屋も持ち回りになったり、選挙になったりで入れ替わる
九州肥後<信濃<河内と先進的な地域ほどそれが進む

P124
前土間型 北陸に多い 普通は横土間

P125
これは竪穴式住居から影響を受けていると説明(そうなのか?単に降雪量が多いから妻入りにしたためではないのか)

P130
田の字型の四間取りが一般化するのは明治時代になってから。北陸はほとんど三間取り+板の間か三間取り

P134
高千穂 並列型 土間+3間 ゴゼン、オモテ、ツボネ
オモテは21畳 これは神楽に使う

P137
椎葉 並列型 土間はドジと呼ぶ ウチネ+デイ+コザ
デイの前にはメクラシキイという空間。ここは客がまず入り、主人の許しがあればデイに進む。デイ(出居)、椎葉独特の空間。神楽で使う場合は客はメクラシキイから観劇する

P139
焼き畑と林業 生産力は低い 高千穂も椎葉も家は大きい これは神楽に見える文化と精神の力が大きく作用したのではないか

P140
武士の家の様式をとりいれる前の農民の家は多種多様
藩で異なる
何故か
その地域の生業や文化、宗教規制、大工の仕事圏域から

P146
戸主夫婦の部屋と隠居夫婦の部屋は隣り合わせにはしない。必ず間に空間を置く。対角線の位置に置く。全国の農民の家に見られる普遍的な生活様式

P147
子供たちは親と納戸で寝るが、小さいうちであり、すこし大きくなるといたるところで雑居寝をし、青年になると若者宿、娘宿で集団生活をした。これは明治から戦後まもなくまでの風習であるが江戸時代から続いていた

P150
座敷 江戸時代後期に一般の家まで普及。一般農民は畳を普段は敷かず、農用空間として収穫物の保管などに使ってきた。祭事の時に畳を敷いた。本百姓体制への変化、自立農民80%、それにより家意識を持った。その象徴が座敷。仏事など祭祀生活の豊富化

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(2024年4月 西宮図書館)


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