2012年4月2日の思い出。父がまだ存命の時の話。
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我が故郷も奥深い。父母を連れてドライブに出かけた時に撮った風景。
どこまで行っても舗装された車道がついている。この車道が無ければ雲南かチベットといっても通じるかも。真面目な話し。バブル経済の遺産として日本国土に巡らされた高速道路網と舗装された車道網を登録したら良い。
3月吉日、父と母を連れてホルモン焼きそばを食べに津山へ。あれほど宣伝するから、津山市街そこいらじゅうホルモン焼きそばだらけなのかと思ったら違うんですね。探すのに苦労しました。ホルモン焼きそばのお味は、あんなものかな。
帰りは来る途中に見かけた大垪和の棚田(おおはがのたなだ)の看板を頼りに、53号線を西にそれて山道を12kmほどえっちらおっちら。53号線をそれたところで卵かけご飯の店を見つけた。道路にずらっとお客の車が駐車してあり、ナンバープレートを見ると関西ナンバーが並ぶ。わざわざ来るわけだ。ここまで。
山を越え谷を渡り大垪和の棚田(おおはがのたなだ)のようやく到着。や~、岡山も広い。以前ここで鶴田(たずた)の話を書きましたが、その鶴田の遠い親戚が檀家になっている両山寺のそばに大垪和の棚田(おおはがのたなだ)がありました。けっこう鶴田から離れているんだが・・・。
岡山市大雲寺交差点を起点とする国道53号線は旧御津町で旭川が作った谷を通り旧建部町を抜けたあたりで旭川から離れる。ここからゆるい上り坂が続き弓削、誕生寺、亀甲のあたりでは広く視野が広がる。それまで谷沿いを川にそって走っていた道路は吉備高原に広がる丘陵地帯に入るのだ。目線の遠く近くに家々が点在するのがわかるのは、やや急な傾斜で構成される盆地の底を道路が走っているためで、集落は適当な間隔で点在し田畑も等高線にそって段々を作る。景色は遮られることなくずっと遠くまで見えてしまう。これも以前ここで書いた旧賀陽町の地形と似る。非常に気分が良い。私の好きな風景だ。車を運転している時はよそ見になるので決して薦めないが、是非ゆっくり見てほしい風景だ。
旧賀陽町の時もそうだったが、ここも古くから開けた土地になる。土地の名前が良い。御津に建部に弓削、亀甲。由緒ある地名ではないか。大垪和の棚田に行く道中には打穴(うたの)という地名もある。これは織物技術を持った人々が住み着いたところからきているそうだ。勝手に砧と関係するんだろうかなどと想像する。
もう十年前になるが奈良の民族博物館に行ったとき、吉野にあった古い民家がいくつか移築保存されていたのを見学した。壁も屋根も木を多用。瓦も茅も藁も使わない。木と石と土なのだ。家は傾斜地に立つため二階建てであれば入口は二階にも一階にもある。主屋が平屋でも付属する建物は傾斜に建つ。農村に育った身なれど違和感がある。それらを見たとき昔読んだ本に載っていた昭和30年代の吉野の山間部の風景写真を思い出した。風景はまるで雲南かチベットか。写真に写っていた集落はどう見てもそう見えてしまった。そこに映っていた風景は車社会になるずっと以前の風景である。歩くしかなかった時代。均一化される前の社会がそこに映っていた。
大垪和の棚田のある土地の風景もそれに似る。添付した写真をみると家々の前まで車が通るアスファルトで舗装された道路がめぐるのだが、ほんの数十年前までこれは無かったはず。この日も足の弱った父母を車に乗せ、なんの苦労もなく、それも雨模様の中を数十分のドライブでここまで着いたが、車も無ければ道も整備されていない時代、どんなに遠い場所だったことか。そういう時代の風景を想像してしまう。
本当はゆっくりしていたかったのだが、父母も山道で疲れた様子。私もこの日は神戸まで帰らなければならない身。見学コースも色々指定されていたのだが、1コースのみの見学。何度か車を止めて風景を見ただけで家路を急いだ。帰りはもと来た道から外れて別の道を下った。たぶんこの道はあそこにつながるはずという予想どおり、数年前に父と母を連れて登ってきた道をこの日は逆から下ることになった。大垪和の棚田は鶴田の北にあった。鶴田も昔の垪和郷(鶴田行、参照)の土地だから。昔々ここの地に住む人たちは、この広大な土地に点在する集落をどう行き来して、どういう交流の仕方をしていたのか。
などと考えていたら、親父が後部座席で大きなゲップをした。まずいまずい。山道で車に酔ってしまったようだ。早く帰らねば。