投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

何故1月1日が年の始まりになったのか(2)

何故1月1日が年の始まりになったのか(1)から続く








西暦の話。何故1月1日が年の始まりになったのか。

グレゴリオ暦の一月一日はグレゴリオ暦を採用するときに決められた。春分の日の79日又は80日前が一月一日と定められた。

我々は今、グレゴリオ暦を使っている。グレゴリオ暦は何のために整備されたかというと、閏年の修正のため。何故正確な閏年を適用する必要があったかというと、春分の日を正確に出すため。何故春分の日を正確に出すかというと、復活祭の日を正確に出すため。復活祭の日取りは春分の日が基準になっているから。二ケア宗教会議で当時の3月21日を春分の日としたが、一年の日数を365.25日としていたため千年たって10日の誤差が出た。グレゴリオ暦はその修正を行った。この時に今の一月一日の位置も決められた。春分の日の79日または80日前が一月一日となった。グレゴリオ暦の元はローマの暦。古代ローマでは春分の日が年初であった。春分年初は農耕民に多い。また古代ローマは太陰暦。月の始めは朔〈新月〉。カレンダノエ。年初の日とその日が属する月の最初の日は異なった。このままだと年初の月は今の三月になるはずだが、古代ローマのコンスル(執政官)の着任が三月だったが引き継ぎを二ヶ月持つ事が慣例になり今の一月着任になったことから、シーザーの頃に政治的年初は一月になった。一月年初の始まりである。グレゴリオ暦の一月一日には一切の天文事象の意味は無い。




さて(1)からの続き。何で春分の日を月の1日にしなかったのかであるが・・・

ロムルス暦以前はメソポタミアから伝わる暦を使っていたといわれている。春分年初の暦である。(http://astro.ysc.go.jp/izumo/shogatu.html)メソポタミアの暦がいったいどういう表記なのか(シュメール語の表記にくさび形文字?)調べがつかなかったが、アラビア数字に慣れてしまった私からすれば、想像もできない難解な表記であったことは想像がつく。それに月の日数は陰暦で数えられ1年が12ヶ月だったり13ヶ月だったり(古代バビロニア王国)、19年7閏法という太陰太陽暦で19年間に7個のうるう月を入れるという暦だったり(カルデア(新バビロニア)王国)で、年初をどこに持ってくるかということも大変な決め事だったに違いない。

思うに暦を作るということ以前に春分の日(秋分、夏至、冬至も)は天体の観測からわかっていたはずで、それを春の訪れる日として年初とする考えはどこでもあったことと思う。それとは別にといおうか遅れて暦を整備しはじめた時、わかりやすい月の運行から求めた暦の月の最初の日と春分の日が一致するわけでもなく、難解なカレンダー表記ともあいまって無理は避けたというか、気にしなかったというのが答えではないか。

現代人は1月1日を年初として取り決めて生きている。政治的な年初も経済的な年初も取り決めている。そうしないと生活に不都合があるからだ。しかし1月1日は取り決めでそうなっているだけであり、その理由にすべての人が納得するものはない。同じように古代でも年初の月はこの月、日にちはこの日と決まれば不都合は無かったのかもしれない。

が、シーザーはそんな凡人ではなかった。やはり年初は1日にするべきだと考えていたようである。シーザーは冬至1月1日、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように暦を設計したようなのだ。ユマ暦改訂版から使われ始めた政治的年初Janiariusの1日を冬至にもってきて、旧来の春分年初は4月1日のしようとしていたらしい。冬至も春分も農耕民にとっては大事な起点。太陽暦採用とともに起点のはっきりした暦を作ろうとしていたのだろう。1月1日は「割礼年初」だ「冬至後の最初の新月の日」だといろいろ理由はつけれるのだが、きっちり天文学的意味を持たせてやろうとしていたのだ。すっきりする話ではないか(笑)。

(2010年1月28日追記 : 今も我々は月の満ち欠けが大元になっている陰暦の影響下を抜け出せていないだけではないだろうか。上記のシーザーの件は除いても2000年前にできた陰暦の影響を引きずったローマの暦の影響から抜け出すことをしていないだけなのではないだろうか。)


以下「オキテルのホームページ」より






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http://www.asahi-net.or.jp/~gt9o-endu/miscellaneous/jan1.htm

ユリウス暦施行の1月1日の翌日が、古ローマ暦(太陰暦)での1月1日に当たっていた可能性が高いことが分かっている。現在の天文知識に依れば、ユリウス暦施行の1月1日の翌日が(朔=新月=陰暦一日)に当たっていることが判明している。

一方、紀元前千年頃は、春分3月31日、夏至7月3日、秋分10月2日、冬至12月30日(ユリウス暦で)...2至(冬至・夏至)2分(春分・秋分)が季節の変わり目とほぼ一致していた。

という事情を考えると、ユリウス暦は、年初を冬至の近くに置いたと推定される。つまり、ユリウス歴は、冬至1月1日、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように設計したのではないか、また、それが、 各月の日数配分(冬の期間の一月が短い)にも反映されたのではないかと推定される。

ユリウス暦制定は、紀元前44年であり、紀元前1000年ではないが、制定当時の天文知識が古いものであったとも考え得る。

シーザーが、ユリウス暦施行の直前の年を445日という変則的な年にしたのは、このような設計、そして、これローマ暦での1月1日と合わせる為のものであったと推定することができる。(確たる証拠があるわけではな く、そう推測している学者がいる)

要するに、現在のグレゴリオ暦の基となっているユリウス暦では、1月1日を冬至に置き、春分4月1日、夏至7月1日、秋分10月1日になるように設計した可能性がある。

しかし、前述の通り、ユリウス暦が1年を実際より長めに取っていることや、地球軌道が動いていること、地球自体の歳差運 動(コマの首振り運動と同じ)もあって、実際の暦はそのような設計から大きくずれてきている。

現在、冬至:12月22日頃、春分:3月21日頃、
   夏至: 6月21日頃、秋分:9月23日頃

紀元325年のニケアの宗教会議の頃は、実際の春分は3月21日になっていた。

16世紀、復活祭の日取り決定のためニケアの宗教会議以来、暦面上固定していた3月21日春分を実際の春分に合わせるべく、1582年グレゴリオ暦が制定され、結果として、1月1日は、春分の日の79日(または、80日)前と定義される形となった。

以上が、1月1日が冬のあの時期に置かれている背景である。

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私のささやかな疑問は解決。何故誰も春分の日、それが冬至でも夏至でも秋分でもいいが、その日を暦の1日にもってこようとしなかったのか不思議だったのだが、シーザーが考えていたようだ。シーザーに感謝。

ちなみに日本が使っていた中国の太陰太陽暦は冬至と春分の中間点である立春が元旦にくる設計だそうだ。こっちの方が今の西暦より合理的だと思うのは私だけだろうか?シーザーの思いに近いはずだ。

次の2)の疑問へ。

1)を調べているうちに私の当初の疑問は解決してしまった感はあるのだが、もう一度一般的なことも含めて整理する。

ユマ暦改訂版の時点でJaniariusのカレンダエ日は政治年度の年初だった。それはコンスル(執政官)の任期が始まる日。Janiariusのカレンダエ日は太陰太陽暦での朔(さく:新月、陰暦で、ついたち)の日。一般の年初とされる春分の月から二ヶ月前に任期が始まる理由はユマ暦改訂版でJaniariusの月が年初とされたから。それまではMartiusの月が年初であったためMartiusの月から1年が任期だった。

春分の日を年初とするバビロニア時代からの慣例と朔(さく:新月、陰暦で、ついたち)の日を最初の日とする暦とでは年初の日を1日にすることには無理があった。それを打破しようとしたのがシーザー。シーザーは太陽暦を採用するにあたって政治的年初Janiariusの1日を冬至にもってきて、旧来の春分年初は4月1日にしようとした。ただこれは成功しなかった。実際の暦はその考えからずれてしまう。

さてここまでで私の「Janiarius 、January、1月の1日が何故年初なのか」という疑問は解けた。この後は一般的な1月1日の説明になる。「どんより」さんの文章が詳しいので引用させていただく。







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http://gito2.blog39.fc2.com/blog-entry-23.html

キリスト教ではイースターの日取りを決める際、春分の日を正確に求めることが重要になる。ところがユリウス暦では閏年を4年に1回挿入して1年を365.25日として計算しているのだが、現実の1年は約365.2422日であり、約128年ごとに1日のズレが生じてくる。このため徐々に春分の日が現実とズレてくることになり、ついに西暦325年のニケア公会議で、そのときの実際の春分日である3月21日を春分日と定めてしまった。日付をきっちりと固定してしまうと、当然その後も長年の間にズレが生じることになるのだが、1582年に至ってもっと正確な暦であるグレゴリオ暦に改暦する際、今度は春分日を移動させて新たに固定するのではなく、日付のほうを削って春分日に合わせるということをやった。1582年は10月4日(木曜)の翌日が10月15日(金曜)になったのだ。これでまた春分は3月21日に戻ることになった

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1582年グレゴリオ暦が制定された。1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は31日間、4月、6月、9月、11月は30日間、2月は平年が28日間、閏年には29日間。3月21日を春分の日とする。結果として1月1日は、春分の日の79日または80日前となってしまったということだ。

こんな理由で1月1日を決めたとシーザーが知ったら怒るのだろうか、大笑いするのだろうか。



-- 参考 --

ユマ暦とユリウス暦については、ここがコンパクトに良くまとまっている。
http://www.bao.go.jp/stardb/cal/data/cal0113.html
http://www.bao.go.jp/stardb/cal/data/cal0061.html
餅は餅屋である(笑)。
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