江戸の弾左衛門―被差別民衆に君臨した“頭” (三一新書)中尾 健次三一書房このアイテムの詳細を見る |
1996年2月15日 第1刷発行 三一書房
著者は中尾 健次。1950年大阪生まれ。1974年大阪教育大大学院修士課程修了。大阪教育大学教授。
読んでいて日本はものすごく皮革産業が盛んだったように勘違いしてしまいそうになった本。
以下メモより
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「長吏」:平安鎌倉時代、寺院などで宗教的行事を担当する役職を指す。南北朝から戦国時代にかけては職人集団の頭も「長吏」と呼ぶようになる。江戸時代「長吏」はエタ身分を指すようになる。大阪では「長吏」といえば非人の頭を指す。
「穢多」:神社の境内を掃除する人。鎌倉時代、漢語の素養のある僧侶などの言葉遊びから生まれたものか?江戸時代初期、御仕置役に従事する人足をエタと称するが、元禄年間になると「かわた」と呼ばれた皮・革をとる職に従事する人々もエタと呼ぶようになる。
「非人」:公民に対する言葉として古代からある。口分田を支給された農民は戸籍に登録されるが、これを公民とすれば戸籍に登録されていない人々は非人と呼ばれた。江戸時代の非人は意味が違う。「貧人」のことである。1603年「日葡辞書」というポルトガル語の辞書には「Finin ヒニン 貧人」とあり、非人ではない。都市に流入してきた窮民をさす言葉。
弾左衛門の苗字は「矢野」。十三代目の弾左衛門が明治三年十二月五日に名前を改め弾直樹を名乗る。この時から弾が苗字となる。
弾左衛門が歴史に登場するのは永禄二年(1559)8月。東京都足立区(沼田庄)の長吏であった弾左衛門が北条氏によって役を追われ訴訟をおこした記録に出てくる。結局江戸追放処分。家康が江戸に入った時、北条氏の息のかかった長吏である太郎左衛門のかわりに弾左衛門を長吏にすえた。
弾左衛門が鎌倉時代から続く家柄というのは不確か。偽造された由緒書によるもののようだ。六代目弾左衛門の時、弾左衛門由緒書が作成される。六代目は元禄十一年(1696)~寛延元年(1748)引退。宝暦八年(1758)没。正徳五年(1715)十月二十五日、北町奉行坪内能登守に由緒書を提出。
「摂津国池田より相模国鎌倉へ下る。頼朝公より長吏以下の支配を命ぜられる。証文は鶴岡八幡宮へ奉納」
鶴岡八幡宮には利阿という人物に与えた東八カ国長吏の免許状(大永三年(1523)三月二十三日)があり、これも偽文章という説もある。
「頼朝公より長吏頼久(極楽寺長吏の利阿の出家名)に東八カ国長吏に任命」
この文章は極楽寺長吏が太郎左衛門に対抗する際にも使われた。弾左衛門は極楽寺長吏を祖先とすることで頼朝依頼の由緒を偽造しようとした。
弾左衛門由緒書は享保四年(1719)と享保十年(1725)にも提出される。享保十年のものには古文書二通の写しが添付される。一通は利阿に頼朝が与えた証文。もう一通は頼朝の花押が記された治承四年(1180)の奥付がある長吏以下二十八職の支配を命じた証文。この二通は偽書とされている。頼朝が伊豆で挙兵するのは治承四年八月だが、鎌倉へ入るのは十月。九月の時点で鎌倉の極楽寺長吏に証文を与えられないし、花押もこの時代には無い。
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