田宮俊作 「田宮模型をつくった人々」 文藝春秋
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2004年9月25日 第1刷
著者 1934年静岡生まれ 早稲田大学法学部卒
1977年 田宮模型社長
1984年 タミヤ社長
1995年 (財)タミヤ奨学会理事長
著者はこの本の前に「田宮模型の仕事」という本を出している。
子供の頃、タミヤやイマイ、ハセガワといったプラモデルを盛んに作った。昭和40年代の頃だった。メーカーの住所がみな静岡県になっていることを不思議に思っていたのだが、静岡は木材の集積地で製材後の木材から出る木っ端を使い木製玩具を作る玩具メーカーが出来上がり、それが今のタミヤやイマイ、ハセガワであることを知る。
1960年に欧米から日本にプラスチック製の模型の輸入が開始されたそうで、これはペリーの黒船みたいなもので、それまで木製玩具を作っていた日本のメーカーにとっては脅威だった。これを機に日本の玩具メーカーの多くがいっせいにプラモデルメーカーとなるべく挑戦していったという。
1960年は昭和35年だから、それから10年後には私が住んでいた山の中の町にも日本のメーカーのプラモデルがごく普通に置かれていたことになる。10年で完全に脱皮したわけだ。これはこれですごい。なまじっかの苦労じゃなかっただろうけど。
1970年代、田宮模型は世界に通用するプラモデルメーカーとなっていた。1970年(昭和45年)7月、韓国の朴大統領はソウルに作った「子供の会館」にタミヤ製品だけの展示販売コーナーを設けた。自国の産業保護のため日本の玩具は輸入禁止の時代にだ。当然韓国の玩具メーカーからクレームがついたが朴大統領は田宮の模型と同じものができるようになってから言えと取り合わなかったそうだ。
朴大統領の暗殺後、朴大統領の命令で韓国側の田宮模型の担当者になっていた安三氏は投獄される。釈放後、安三氏は著者に田宮のファンは韓国には多い、充分に商売になる。アメリカ軍のPXを利用すれば輸入が続けられる。だから模型を売ってくれと話を持ってきたそうだ。
1980年代半ば。田宮模型本社横にある競輪場の駐車場に大型ヘリコプターが着陸した。そこから降りてきたのは米軍横田基地司令長官エド・フライ。フライ司令長官は田宮の熱烈なファンで田宮模型の本社が見たくて福生の空軍基地からヘリコプターを飛ばしてきたそうだ。ヘリコプターを競輪場の駐車場に着陸させるためにいったいどういう手続きをしたものやら?
アイルトン・セナも田宮模型のファンの一人だった。彼はRCカー専門だったようだが、毎年彼のF1カーの調整をイギリスで開始する時、セナ自前のRCカーも同じコースで調整をしていたという話には笑った。
・・・などなど、タミヤの社員だけでなく田宮模型を支えた多くのファンの話も満載。
以下、メモより
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1960年、欧米からのプラスチック製の模型の輸入開始。
p28、1/48のフェアリーソードフィッシュ複葉機
p29、タミヤはB29の模型を作らない
P63、1980年代半ば、横田基地司令長官エド・フライ、福生の空軍基地から
大型ヘリコプターでタミヤ本社ビル横の競輪場の駐車場に降り立つ
P66、ペンタゴン勤務のV氏
P31、フランスのソミュール戦車博物館
2000年2月タイガー戦車マイバッファ21000CCガソリンエンジン
の音を録音
P195、木村秀政(日大教授)、藤井康男(龍角散本舗社長)、木村泰造(木村パン社長)
石坂浩二(俳優)、小松崎茂(画家)、藤子不二雄(漫画家)、アイルトン・セナ
リチャード・クー(野村総合研究所主任研究員)・・・・
P192、2004年静岡ホビーショー
サマワに行った陸上自衛隊軽装甲機動車2台展示
P174、韓国朴大統領
P116、1960年代ベトナム戦争が始まった時代、戦争玩具反発ムード
P76、1975年ベトナム戦争終結
模型業界もミリタリーモデルは下火
P211、中国の模型メーカーの話
中国人は儲けたければ良く売れる製品のまねをする
もっと早く儲けるためには中国人は相手を騙す
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